野澤正平
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野澤 正平(のざわ しょうへい、1938年 - )は山一證券の最後の社長。長野県出身。長野県屋代東高等学校(現長野県屋代高等学校)卒業後、3年間働いた後に1964年法政大学経済学部卒業、山一證券入社。金融法人本部副本部長、名古屋支店長、専務取締役大阪支店長を経て1997年同社代表取締役社長に就任。現在は日産センチュリー証券株式会社代表取締役社長。法政大学経済学部同窓会会長も務める。
[編集] 概略
東京大学卒で大蔵省担当を経験した者しか社長になれなかった山一證券のなかで、私立大卒であり、一営業社員を振り出しに、所謂たたき上げてきた人物。野澤が2600億円にも上る簿外債務の「飛ばし」のことを知らされたのは、社長に就任した後のことであった。前社長・三木淳夫と前会長・行平次雄の二人は、野澤らに問題を押し付けて退任したのである。野澤らは外資との提携や、規模縮小などで会社の存続を図ったが、もはや手遅れであった。株価の下落は止まらず、銀行の支援も喪い、最後には大蔵省にも見放される形で自主廃業を決定せざるを得なかった。
自主廃業を発表する会見の場で、「みんな私たち(経営陣)が悪いんであって、社員は悪くありませんから! どうか社員に応援をしてやってください。優秀な社員がたくさんいます、お願いします、私達が悪いんです。社員は悪くございません」と男泣きに泣きながら社員をかばったことがテレビで放送されて注目された。日本の大小を問わず有名企業が自社の不正が発覚した際の当時の社長の謝罪の仕方として今や伝説に残る記者会見にもなった。山一の破綻によって多数の従業員が解雇され、顧客や融資先などにも多大な損害があった。にも関わらず、山一では社長職を東大出身者が独占していたこともあり、法政大学出身の野澤の男泣きには、野澤だけではなく山一の一般社員に対する世間の同情が集まった。これが野澤および社員の再就職の大いに貢献する。簿外債務事件には無関係で訴追されることはなかった野澤は自主廃業の業務に追われる傍ら、自ら社員の履歴書を持って求職活動をするなどし、現在でも当時の社員としばしば交流を行っているという。(三木・行平は証券取引法違反容疑で逮捕・起訴された)。
1999年6月の山一證券破産宣告をもって、「最後の山一社長」としての使命を全うした後は、名古屋支店長時代に上場を勧めた事があるコンピュータ周辺機器メーカーのハギワラシスコムの社長、河瀬翔之の要請で同社の子会社であるシリコンコンテンツの会長に就任。同社が推進するIP電話「ビットアリーナ」の普及に当たる一方、インターネットコンテンツ製作会社のデジタルガレージ(日本初の個人ウェブサイト「富ヶ谷」を発祥とする。インフォシーク(現在は楽天が承継)の最初の日本代理店でもあった)の顧問にも就くなど、一時はIT業界に身を投じた。
2004年6月にセンチュリー証券(現・日産センチュリー証券)社長に就任、証券業界に復帰した。野澤自身は直接的には関与していないものの過去に社長を務めた企業(山一證券)の不祥事に関する責任を感じてか、本人は証券業界への復帰については消極的であったが、彼の人柄が評価され、強く請われての復帰となった。