那須正幹
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那須 正幹(なすまさもと、1942年6月6日- )は、児童文学作家。「ズッコケ三人組」シリーズ作者。広島県広島市己斐(こい)(現・西区己斐)出身。現在は山口県防府市に在住。
目次 |
[編集] 来歴・人物
1945年8月6日、広島市庚午(現・西区)の自宅で母親の背におぶさって被爆。幼少のときから本を読むことより、外で遊ぶほうが好きな少年だった。特に熱中したのが昆虫採集で、これがもとで当時、生物クラブが盛んだった広島市立基町高等学校に進学。この高校で、後年発表する『ズッコケ三人組シリーズ』に登場する宅和源太郎先生のモデルになる先生と出会う(ちなみにその先生は、後に有名になった歌手・松田聖子の親戚であった)。同校卒業後には、島根農科大学(現:島根大学)林学科で森林昆虫学を専攻した。卒業論文のテーマは『マツノシンクイムシの天敵防禦』。大学在学中は、友人に誘われて山岳部に所属し、1年のうち100日くらいを山で過ごしたこともあったし、北海道の摩周湖で泳いだこともある。また、山岳部に所属していたことが、就職活動の面接で話題になり、大学卒業後に上京して自動車のセールスマンになるきっかけとなった。
自動車のセールスマン時代は、東京の下町を拠点に営業して廻った。お昼になると荒川の河川敷に腰をかけ、野球に興じる少年たちを遠くに眺めながら、近くの店で買った菓子パンとテトラパックの牛乳を昼ごはんに、(ぼくはこの先何年も、この景色を眺めながら、ここでこのように昼ごはんを食べ、同じように時間を過ごしていくのだろうか)と物思いに耽ったという。 だが、ときには中野・練馬あたりにまで足を延ばすこともあった。そんなとき、移動の電車内で乗り合わせた若い女性が星の王子さまを読んでいたことから、その内容に興味を持って読んだのが、児童文学との、ほとんど初めてに近い出会いだった。
また、千葉県松戸市のアパートで一人暮らししていたころ、隣室に住んでいた若夫婦と親しかったが、実はその夫婦が関東一円を荒らしまわる大泥棒で、その所在をようやく突きとめた刑事が那須の部屋で張り込み、隣人夫婦が帰ってきたところで大捕り物があったというエピソードもある。
このように、那須が東京で一人暮らししていたころは悲喜こもごも、必ずしも楽しいことばかりではなかったのだが、こうした経験が、その後の作家・那須正幹が綴る、楽しさ、面白さのうちにも奥行きや深みを感じさせる作風になって影響していることは、その後の作品の随所に読み取ることができる。
[編集] 作家・那須正幹の草創期
さて、こうした東京での暮らしは2年ほどで、まもなく会社の配置転換のやり方に腹を立てて退社。広島市の実家に戻ってから家業の書道塾を手伝っていたが、姉に誘われて広島児童文学研究会に参加。参加しようと思ったきっかけは、それまで作家と呼ばれる人たちに会ったことがなかったからという気軽なものだったが、ここで初めて児童文学を創作し、『ヒバリになったモグラ』という作品を発表した。その内容は、宮沢賢治の『よだかの星』にどこか通じるものがあり、ヒバリになったモグラが太陽に向かってどこまでも飛んでいき、やがては焼け死んでしまうことを髣髴とさせる結末である。そのせいか、同研究会の指導者たちから「この会は新しい児童文学を作ろうとしているんですよ」という批評を受けた。これ以来、那須の創作活動に於いては「新しい児童文学をつくる」ことが大きなテーマになった。
那須は幼児のころ、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読み聞かせてもらったことがあり、このとき、機関車が力強く走るイメージを思い浮べたことから、宮沢賢治の作品は子どもにとって印象に残る内容という感想を持っていたと思われる。ここに、那須が初めて書いた創作が、宮沢賢治の作品にどこか通じていた訳もあるだろうが、それを”古臭いんじゃないか”と指摘されたことは、その後の那須が書く児童文学が、常にそれまでにない新しいスタイルを模索する、強烈な動機づけになった。そして、このときに(30歳までには必ず本を出そう)と決意した那須は、まさしく30歳を迎える1972年に、『首なし地ぞうの宝』で学研児童文学賞を受賞してデビューする。
その後、1975年に『屋根裏の遠い旅』(主人公が、日本が太平洋戦争に勝ったパラレルワールドに迷い込んだという設定。その世界の日本はベトナム戦争にも介入する。架空戦記ともいえるが執筆年代を考えると非常に重い作品)という児童文学作品を執筆し、これを皮切りに多数の児童文学作品を生み出すことになる。
[編集] 『屋根裏の遠い旅』
『屋根裏の遠い旅』は、那須が当時の児童文学に向けて放った挑戦的意欲作である。当時の児童文学界で主流だった太平洋戦争での戦争体験を子どもたちに伝えようとする多くの作品に対して、那須はそれでは本当に子どもたちを戦争から守ることにならないのではないかと考えた。
3歳のときに被爆した那須は、中学2年のときに受けた被爆者健康診断(国が始めた被爆者健康診断の第1回目)で、赤血球の数が正常値よりやや少なめだったために要精密の診断を受け、原爆症になったのではないかと真剣に悩んだ経験がある。実際は良性の貧血症状だったようで、その後、那須の赤血球値は正常に戻ったが、こうした経緯は、那須にとっての太平洋戦争が、その体内では終戦後もずっと続いていたという認識、これと正面きって向き合わざるを得ないものとした。太平洋戦争で実際にあった惨状を児童文学として子どもたちに伝承することの意味を那須は決して否定していないし、戦争児童文学に触れた子どもたちがその悲惨さを知って泣き、心をいためて反戦意識を強めることは想像に難くないが、那須は、それで未来の戦争までをも防げるのかと考えた。過去の戦争体験は、時代とともに風化していき、過去の戦争体験を知って泣いた子どもたちは、その本を読み終わったと同時に、戦争のない時代に生まれてよかったとも思う。那須が気にしたのはまさしくここであった。戦争のない時代に生まれてラッキーだと感じるのではなく、いつまた戦争が起こるか分からないという認識、戦争はいつでも未来に起こりうるし、その火種はいまも常にあり続けているのだという「現在進行形の戦争児童文学」を、那須は『屋根裏の遠い旅』という作品に込めたのである。そこに、太平洋戦争に勝った日本というパラレルワールドに、現実には太平洋戦争の敗戦国・日本の子どもたちが迷い込んだという設定の理由がある。
ただ、『屋根裏の遠い旅』や、その後に発表した『ぼくらは海へ』は、数ある那須作品のなかではかなりの意欲作であるが、那須自身が振り返るに、その評判は必ずしも良くなかった。その核心は読んだ後の不安感、心のおさまりの悪さであるが、那須はそれをあえて狙ってもいる。その不安感、心のおさまりの悪さから、読者が何かを考えてくれればいい、そう考えて、敢えてそういう結末にしているのだが、いわゆる好評を博す物語の結末として定番のハッピーエンドになっていないことが、作品発表後の評判にはつながらなかった。
のちに『ズッコケ三人組シリーズ』に代表されるような、エンターテイメントとしての地位を確立する那須だが、『折鶴の子どもたち』、『さぎ師たちの空』、『殺人区域』など、時として、同じ作家が書いたのかと思うほどに質感の違う、息が詰まる作品を発表することはその後も続く。
[編集] 『ズッコケ三人組』の誕生
さて、那須はそれまでの人生経験から、強力な反戦意識を持ち、陽の当たらない人々にも共感し、児童文学作家としての創作活動では常に前向きで、ほかとは違う新しい作品を生み出す姿勢を持つことになったが、こうしたスタンスは、那須の代表作、「ズッコケ三人組」シリーズとして開花する。
第一作は1978年2月に発表した『それいけズッコケ三人組』。この作品は那須が作家デビューするきっかけとなった学習研究社、その学習雑誌『6年の学習』に1976年4月から1年間連載された『ずっこけ三銃士』がもとになっており、読者たちの評判はすこぶる良かった。だが、当時の児童文学としてはあまりに型破りなその内容に、作者自身も、単行本にできるかどうか不安だった。
そんな時、たまたま那須の前に現れたのが、東京にある児童図書出版ポプラ社に入社して間もない編集者で、業界にもあまり慣れていないその編集者を見て那須は、(案外、こういう編集者なら、ひょっとしたら単行本にするかも知れない)と直感。『ずっこけ三銃士』を見せたところ、その編集者は「すぐに本にしましょう」と簡単に約束して帰京した。 ところが待てど暮らせど本はできない。そのうち、その編集者が「別の作品を書かないか」と那須に言ってくることもあり、那須自身も「それより、あの件は?」と催促したりして、ようやく発行にこぎつけたのが、原稿を渡してから1年余りが過ぎた1978年2月のことであった。
ようやく送られてきたその本のタイトルを見て那須は驚いた。『ずっこけ三銃士』が『それいけズッコケ三人組』に変わっている。那須は編集者にその理由を問いただすと、編集者いわく「三銃士は古臭い。それに『それいけ』という掛け声をつけたから、絶対に売れます!」と言い切ったという。
「原作者に無断でタイトルを変える編集者は後にも先にも、あの人しかいなかった」と後年、那須は述懐しているが、その編集者との縁がもとで『ズッコケ三人組シリーズ』はその後、戦後の日本児童文学最大のベストセラーになっていく。
[編集] 書き続ける作家・那須正幹
発売して間もないときから子どもたちが面白がって読んだ『ズッコケ三人組シリーズ』だが、売れれば売れるほど、当時の児童文学をとりまく大人たちからの批判にはさらされた。1985年に関西テレビが当時金曜夜7時に持っていた阪急ドラマシリーズ枠でドラマ化する(なおこのシリーズは基本的に関西・関東・山口県だけで放送されたが、後に他のテレビ局でも放映された。)一方で、『ズッコケ三人組シリーズ』は賞とまったく無縁であったばかりか、一部には悪書としての評価もあった。 そうしたなかでも、那須が2004年12月、シリーズ第50巻『ズッコケ三人組の卒業式』で『ズッコケ三人組シリーズ』を完結させるまでの26年間、同シリーズを絶えず世に送り出し続けたのは、職業作家としてのプロ意識はもちろんだが、常にそのスタートラインで紆余曲折を経験しながらも、ある時期から、突きつけられた試練に正面から向き合い、乗り越えようとする努力を続けてきたからにほかならない。この誠実な姿勢こそが、作家としての那須を貫く、正しく根幹となっている。
若かったころの那須は、必ずしもエリートではなかったかも知れないが、いくつかの挫折を経てもそれらをのちの人生に生かし、それゆえに失敗することをも恐れず、却ってひとまわり大きくなっていた。
幼い頃、戦争という大きな力に一時、押しつぶされそうになり、その戦争がいまも何らかのかたちで現在進行形であると意識する那須にとって、生きることは絶えず大きな力との戦いであり、平和や健康や幸福は与えられるものでなく、常に得るための努力を続けなければ、得られないものである。 こうした、うちに秘めた孤独な闘いを日々続ける那須の姿勢とその誠実な生き方そのものが、那須の絶え間ない創作活動に通じて、2007年で200作を超える多作家として結実した。
一時はあまりに賞に無縁な自らの作家人生を「無冠の帝王」と自称した那須だが、1994年に『さぎ師たちの空』で路傍の石文学賞を受賞。これを契機に、那須作品が次第にいくつかの賞に輝き始め、『ズッコケ三人組シリーズ』がNHK教育テレビ『ドラマ・愛の詩』(1999年)で放映されると、『ズッコケ三人組シリーズ』が第23回巌谷小波文芸賞を受賞。さらに第 40 作『ズッコケ三人組のバック・トゥ・ザ・フューチャー』では、野間児童文芸賞を受賞、那須作品の遅すぎた受賞を埋め合わせるかのように受賞が相次いだ。 こうして、那須は無冠の帝王を返上するときを迎えたが、那須はこの受賞の感想で「やはり作家はしつこく書き続けなければいけません。ずっと書き続けたからこそ、今日があるのです」と述べている。
その後、『ズッコケ三人組シリーズ』は、2004年にテレビ東京系でアニメにもなり、同年12月にはシリーズ化当初からの約束でもあった50巻を迎え、ズッコケ三人組の小学校卒業と宅和先生の教員退職をもって、同シリーズは完結した。 2004年11月現在の累計発行部数は 2100 万部(文庫本を含む)で、これは国内の児童文学シリーズとしては史上最大のミリオンセラーとなっている。
その翌2005年12月、1作限りの続編として、不惑の年齢・40歳を迎えた三人組を描くズッコケ中年三人組を発表。そのあとがきで「10年後には50歳になった三人組が登場する『ズッコケ熟年三人組』を書きたいものだ」といったところ、ファンからは「10年も待てない」という声が殺到。また、シリーズ化当初からの付き合いだった編集者も「10年後、那須さんは生きているかどうか分からないから、毎年1作ずつ書いたら」と軽口をたたきながら強く勧め、三人組が50歳になるまでの間、毎年1歳ずつ歳をとっていく設定で、ズッコケ中年三人組がシリーズ化するはこびとなった。 那須にとっての『ズッコケ三人組シリーズ』は完全なライフワークになっている。
このほか、1995年『絵で読む広島の原爆』など、社会的テーマを持つ作品もある。原水爆禁止日本協議会主催の「原水爆禁止世界大会」での講演も行なっている。
1981年に川村たかしら児童文学者ともに児童文学創作集団「亜空間」を結成し、同タイトルである「亜空間」を季刊誌として創刊した。
執筆活動の傍ら、山口女子大学(現 山口県立大学)では、児童文学を教えていたこともある。 2007年日本児童文学者協会第15代会長に就任。地方を拠点にする作家の会長就任は初めてとなる。