西遼
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西遼(せいりょう)は、1132年から1211年までトルキスタンに存在した国の中国史料での呼び名。1125年に、金に滅ぼされた遼の皇族である耶律大石が西に逃れて建てたのでこう呼ばれる。 主にペルシア語などのイスラーム史料からはカラ・キタイ( قرا ختاىQarā Khitā'ī:カラー・ヒターイー)と呼ばれる。この語は黒い契丹の意味とされるが、遼の国号である「大契丹国」の契丹語ないしテュルク語での音写に基づいたものなど、別説もあり詳細は不明。なお後遼という表記も散見される。
天山山脈の南北のシルクロードルートを押さえ、中継貿易で栄えた。首都はベラサグン(フスオルド Ghuzz Orda / غزباليغ Ghuzz-Balïγ 。現在のキルギスタントクモクの付近)。
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[編集] 歴史
西遼自身は記録を残さず、これらの情報は中国史料とイスラーム史料によるものである。
しかしながら、漢文史料や、アラビア語・ペルシア語での史料はカラ・キタイ史のみを専門にあつかった史書は現存していない。そのため、同時代や滅亡後に編まれた他の年代記などで断片的に記述されている情報を総合しなければカラ・キタイ史の再構築は不可能な状態にある。
[編集] 耶律大石の西走と勢力の伸張
1125年、遼が金により滅ぼされる際に、皇族の耶律大石は一部の契丹族を率いて外蒙古に逃れて、現地の諸部族の力を借りて可汗と称した。しかしこの地にも金の勢力が迫ってきたので、更に西へ逃れてビシュバリクに入り、天山ウイグル王国を臣従させて征服。さらにベラサグンにいた東カラ・ハン朝を征服しベラサグンを改称してフスオルドとし、1132年にグル・ハン( كور خان Kūr khān < Gür χan 「全てのハン」、「全世界のハン」ほどの意味)を名乗って即位した。その後、天山北路・南路を完全に制圧して交易の要衝を抑えて国力を増大させる。
更に西への進出を図り、1137年には西カラ・ハン朝のマフムード2世の軍を破って臣属させ、さらにホラズム地方を劫略してホラズム・シャー朝のアトスズに対しても金3万ディーナールの歳幣を支払うよう講和させた。ついに1141年にはカラ・ハン朝へ援軍を出したセルジューク朝のサンジャルに大勝した(このセルジューク朝に対する戦勝がヨーロッパに誤って伝えられ、プレスター・ジョンの伝説を生むことになったと言われる)。これにより西カラ・ハン朝の領土とセルジューク朝の盟下にあったホラズム・シャー朝の宗主権を手中にし、当時のパミール以東のトゥルキスターンと西方のマーワラーアンナフル、すなわち現在の東西トルキスタンに跨がる地域の支配を確立した。
1143年、耶律大石は遼の故地の奪還を願って7万の親征軍を金に対して出発させるが、行軍中に58歳で病死し、東征は中止となった。
徳宗・耶律大石の死後、その末子の仁宗・耶律夷列(イリ)が後を継いだ。だが、1163年に夷列が早世し、その姉の普速完(プスワン)が弟の跡を継ぐ。この時代には耶律大石の時代と変わらず、東西トルキスタンに勢力を張り、交易の利益を元に繁栄を築いた。
[編集] 衰退
だが、1177年に不倫が原因で伯母の普速完が殺害され、兄を殺害して後を継いだ直魯古の時代になると、西方でホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドがイラクのセルジューク朝本家を滅ぼし、アフガニスタンから北進してきたゴール朝を撃退して、マーワラーアンナフルとホラーサーン全域・東部イランを掌握して勢力を増して独立した。さらにサマルカンド周辺を領有していたカラ・ハン朝の最後の君主ウスマーンもこれに呼応して離叛した。
1200年頃にアラーウッディーンの軍勢が最初の反抗で東進してきたが、西遼軍はこれを破りスルターン・アラーウッディーンの捕縛に成功した。しかし程なくホラズム・シャー朝軍の工作によってスルターンを取り逃がした。1210年に再びアラーウッディーンはウスマーンと合同してスィル川を渡って進軍。東岸のバナーカトにおいて将軍ターヤンクー率いる西遼軍は撃破され西トルキスタンを奪われる。アラーウッディーンのスィル川での勝利に呼応して彼を君主として迎えるべく首都ベラサグンでも叛乱が起き、チルクはこれを討伐せねばらならなかった。
更にこの時期にはモンゴル高原でモンゴル族が着実に勢力を蓄えており、東の天山ウイグル王国もチンギス・ハーンの元へ帰参し、東の領土も失った。そこで1208年、チンギス・ハーンとの戦いに敗れたナイマンの長・クチュルクを皇女の婿君として迎え入れてチンギス・ハーンに対抗しようとした。しかしこれが裏目に出て、ベラサグンの叛乱鎮圧後の軍議が散会した隙を突かれ、クチュルクにより1211年に国を簒奪され、西遼は滅びた。
[編集] その後
クチュルクは簒奪後に仏教を国教化し他宗教を弾圧したために住民に背かれ、契丹皇族にも反発を受け国内の統制に完全に失敗した。とくにトルキスタンの主要都市であったカシュガルとホータンを武力で屈服させ、ホータンでは自ら主催した宗教討論の席上で現地のウラマーを怒りに任せて拷問にかけるなどしたため、ムスリム住民からの反発を招いた。そして1218年にはカシュガルの西でモンゴルのジェベに敗れ、西遼の領土はモンゴル帝国に併合された。クチュルクはパミール高原付近のバダフシャーンに逃亡するものの、現地のムスリムに捕えられた末ジェベの軍に引き渡され処刑された。
その後、モンゴル帝国の領地が分配されるに当たり、この西遼の故地はチャガタイに与えられた。チャガタイ・ハン国の領土はほぼ西遼のそれに合致する。また、アラーウッディーン・ムハンマドにスィル河畔で敗れたターヤンクーにはバラク・ハージブという兄弟がおり、この戦いの後にホラズム・シャー朝に仕えケルマーンのカラ・キタイ朝の始祖となった。
[編集] 政治・文化
西遼は中国文化を中央アジアに持ち込み、仏教・マニ教を信仰した。しかしこれらを住民に強要することはなかったため西遼の文化的痕跡はほとんど残らなかった。
耶律大石が西へ伴った契丹族の数は極めて少なかったため、国内に対して強権を発動することは不可能であった。そのため税を少額しか課すことができず、財政のほとんどを交易に頼っていた。
[編集] 歴代君主
- 徳宗・耶律大石(タイシ、天祐帝、在位1132年 - 1143年) - 遼・太祖の8世の末裔。
- 感天蕭太后・タプイェン(塔不煙)(在位1143年-1150年)- 大石の後妻。
- 仁宗・耶律夷列(イリ、紹興帝、在位1150年 - 1163年)- 大石の末子。
- 承天太后・プスワン(普速完)(在位1163年 - 1177年)- 夷列の姉。
- 末主・耶律直魯古(チルク、在位1177年 - 1211年) - 夷列の次男。
- 缺王・クチュルク(在位1211年 - 1218年)- 直魯古の女婿。