プスワン
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姓名 | 耶律普速完 |
年号 | 崇福 1163年-1177年 |
廟号 | 承天太后 |
字 | - |
諡号 | - |
生没年 | 生年不詳 - 1177年 |
在位 | 1163年 - 1177年 |
プスワン(普速完、またはプスヤン、プスカとも、生年不詳 - 1177年、在位1163年 - 1177年)は、西遼の摂政(皇帝代理)。初代の皇帝の徳宗・耶律大石の娘で、第2代皇帝の仁宗・耶律夷列(イリ)の姉に当たり、諡号は承天太后。
[編集] 略歴
1163年、同母弟の夷列が若くして死去した時は、その子の直魯古らがまだ幼かったため、1150年に亡くなった生母の感天蕭太后・塔不煙(タプイェン)の遺詔も含めて執政摂政(皇帝代行)となり、甥の直魯古らを補佐した。
その性格は非常に淫乱であり、夫である蕭朶魯不の異母弟蕭朴古只沙里と昼夜を問わない肉体関係を続けた。更には目障りな夫を東平男として左遷した上に、後に暗殺するなどの行為を行った。
しかし、息子がその妻とその弟の手によって殺害されたと聞いた彼女の舅・蕭斡里剌が激怒した。蕭斡里剌は、既に成長していた直魯古の長兄である蛮王を擁立した(1177年)。
蕭斡里刺が親衛隊を率いて宮殿に乗り込み、プスワンと息子の蕭朴古只沙里を殺害した。その首級を晒す事で亡き息子の仇討ちを果たしたとして、改めて蛮王に拝謁したと言う。
ただし、この淫乱説には、政変の功労者である蕭斡里剌が行った情報操作の疑いもあるという。
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