装飾経
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装飾経(そうしょくきょう)は、仏教で使用される経典のうち、料紙に美麗な装飾を施したものを指す。紫、紺などの染紙を用い、金銀泥で経文を書写したもの、料紙に金銀泥などで下絵を描き、金銀の箔を散らした上に書写したものなどがある。美術史、書道史で「装飾経」という場合、日本の平安時代に貴族などの発願によって制作された美麗な経典を指すことが多い。
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[編集] 概要
[編集] 奈良時代
奈良時代、日本の朝廷は仏教によって国家を安定させようと考え、国営の写経所を設置して写経を大々的に行った。そこでは、写経用の紙は虫害を防ぐために、黄檗(きわだ)で染めることもあった。
染められた紙は虫害を防ぐためだけではなく、美麗にもなり、やがて、虫害を防ぐという当初の目的以外に、仏の世界を目の辺りにしようとの意図で経典自体に荘厳さをもたせるために紫色、あるいは紺色の紙に金銀泥で経文を書写したり、金銀の箔で装飾した装飾経が作成されるようになった。正倉院文書によれば、奈良時代にも、染紙に金銀の箔を散らした料紙が経典用に用いられたことがわかるが、この種の料紙を用いた経典の現存遺品はほとんどない。この種の装飾経が制作されたのは、単に美麗さを求めたためだけでなく、経典を金、銀、瑠璃、瑪瑙などの「七宝」で荘厳しようとの意図があったものと思われる。
この時代の代表作としては、日本各地の国分寺に安置された紫紙金字金光明最勝王経、東大寺二月堂に伝わった紺紙銀字華厳経(二月堂焼経)などがある。
[編集] 平安時代
平安時代には、紺色の紙に金泥で経文を書写する紺紙金字経が数多く制作された。これは紺色に染めた料紙に金泥で界線(経文の各行を区切る線)を引き、金泥で文字を書くものである。中には中尊寺経(現在、その大部分が高野山金剛峯寺に所蔵される)のように、紺紙に金字と銀字を1行ずつ交互に配した金銀交書経もある。また、色変わりの料紙を用いたもの、料紙に金銀泥の切箔、野毛(金銀箔を細長く裁断したもの)、砂子(金銀泥を細かく裁断したもの)を散らし、草花、蝶、鳥などの下絵を描いたもの、法華経の経文の1文字1文字に蓮台を書き添えた「一字蓮台法華経」などがある。
この時代は国家が事業として写経を行ったのではなく、権力を握った貴族や大寺社によって写経が行われた。当時の法華経信仰の隆盛を反映して、装飾経にも法華経を書写したものが多い。また、平安末期に流行した浄土信仰や末法思想の影響で、貴族らは極楽往生を願い、善美を尽くした装飾経が競って作成された。
この時代の代表作として、大治元年(1126年)に藤原清衡が発願して作成した紺紙金銀泥一切経や、平家が厳島神社に奉納した「平家納経」がある。平家納経は、表紙や見返しに華麗な装飾画を描き、料紙のみならず、巻軸や紐にも装飾工芸の粋を尽くしたものである。
[編集] キリスト教の装飾写本
ヨハネス・グーテンベルクの活版印刷によって聖書が一般に普及する以前は、筆写によって聖書は作成されたため、多大な手間がかかる物であり、教会や貴族にしか作成することは出来なかった。
そのような中、余白に絵を描いたり、ギリシャ文化以来のカリグラファーによって唐草文様のような字体で文字を書かれた聖書が作成されるようになった。