末法思想
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末法思想(まっぽうしそう)とは、仏教の予言思想の一種であり、釈迦の立教以来1,000年(500年とする説もある)の時代を正法(しょうぼう)、次の1,000年を像法(ぞうぼう)、その後10,000年を末法の三時観で分けて考え、釈迦の教えが及ばなくなった末法においては、仏法が正しく行なわれなくなるという、仏教(特に大乗仏教)における下降史観である。
「世も末(すえ)だ」と言う表現はこれに由来するといわれるように、これを終末論と同意義と捉えられることも多いが、これは事実誤認である(後述)。
なお、釈迦の入滅の年代は諸説あるため、末法の年代設定にも諸説あり定まっていない。
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[編集] 終末論と末法思想の違い
中世以降の日本では末法思想を、この世の終わりとする終末論的なものであると捉えることも多い。しかし末法思想はあくまでも仏法の衰退、つまり仏の教えが時代を経て次第に通用しなくなる事のみを指しており、そこに世情不安や天変地異は含まれない。したがって末法思想は「この世の終わり」を意味するものではない。
なお、仏法の衰退と共に社会情勢の不安や天変地異も説く『法滅尽経』などもあるが、一般的にはこれは後世になって創作された偽経とされている。
また大乗仏教では、空論の展開から「不増不減」や「無始無終」を説いている。さらに『涅槃経』では末法である仏法の衰退時において再び仏法が世に出現することを説き、末世における悲観的な見方を根本的に否定している。したがって末法思想=終末論とはいえない。
[編集] 末法思想の典拠
末法思想は、『大集経』(正式には『大方等大集経』)の「我が滅後に於て五百年の中は解脱堅固、次の五百年は禅定堅固、次の五百年は読誦多聞堅固、次の五百年は多造塔寺堅固、次の五百年は我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」などを典拠とする。つまり最後の五百年では仏教徒の間で論争が闘わされ正しい教えが隠没してしまう、ということである。
[編集] 歴史
末法思想は、中国では隋・唐代に盛んとなり、三階教や浄土教の成立に深いかかわりを持った。その早期の例としては、北斉・陳の天台宗二祖・南岳慧思によって記された「立誓願文」に見られるし、隋代以降1000年にわたって継続される房山の石経事業も、末法思想によるものである。
日本では平安時代のころから現実化してきた。特に1052年(永承7年)は末法元年とされ人々に恐れられ、さかんに経塚造営が行われた。この時代は貴族の摂関政治が衰え、代わって武士が台頭しつつある動乱期で、治安の乱れも激しく民衆の不安は増大しつつあった。また仏教界も天台宗をはじめとする諸寺の腐敗や僧兵の出現によって退廃していった。このように仏の末法の予言が現実の社会情勢と一致したため人々の現実社会への不安は一層深まり、この不安から逃れるため厭世的な思想に傾倒していった。
鎌倉時代には、法然の浄土宗や親鸞の浄土真宗などは末法思想に立脚し、念仏により死後に西方極楽浄土の阿弥陀如来の御許への往生を唱えた。また日蓮も、同時期に法華一乗を唱えた。しかし曹洞宗を開いた道元は、釈迦在世でも愚鈍で悪事を働いた弟子もいたことや、末法を言い訳にして修行が疎かになることを批判し、末法思想を否定した。