行中書省
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行中書省(こうちゅうしょしょう)は、モンゴルの王朝元が中国の地方統治の最高単位として設置した行政機関。行省(こうしょう)ともいう。現在の中国における地方行政の最高単位である省は、元の行省に由来している。
[編集] 制度
元の国制において、六部を統括する中央政府の最高行政機関であるとともに、首都大都を中心とする首都圏地帯(中国語 : 腹裏 ; モンゴル語 : コル)の施政を担当した中書省の業務を地方において代行する中央政府の出先機関である。命令系統の上では中書省と同等に皇帝(モンゴル帝国大ハーン)に直属し、長官は中央の中書省と同じく丞相(モンゴル語 : チンサン)および平章政事(モンゴル語 : ピンチャン)という。幹部には右丞相・左丞相・平章政事・右丞・左丞・参知政事などが置かれ、右丞相が首席長官である。
元の地方行政制度では、県・州の上に上級の地方行政単位として路が置かれたが、腹裏の中書省と、地方の行省は、その支配下に定められた各路の行政機関の上級機関としてその政務を統括する任を負った。管轄地域内における銭糧・兵甲・屯種・漕運・軍国の重事でおよそ預からないところはないとされる。時期によっては中央に設置された財務行政官庁である尚書省の出先機関に改められ、行尚書省(こうしょしょしょう)と呼ばれた。行中書省の数は最多で11にのぼる。
行中書省は本来、前線における政治と軍事を統括するために設置される機関であったので、軍事行動の都合にあわせて設置された。例えば、1280年に日本に対する侵攻(元寇)目的で設置された征東行省は、属国である高麗と直轄領の遼東を管轄し、侵攻の準備と徴発を担当した。翌1281年の侵攻(弘安の役)が終わると征東行省は解散されるが、クビライの再遠征計画に従って1287年に再設置され、高麗国王が長官の左丞相に任命される。その後、三度目となる日本への侵攻はついに行われなかったが征東行省は数度の廃止を経ながらも残され、高麗国王を長官として高麗国を管轄し、高麗と元の連絡機関のようになった。
元では、軍政機関である枢密院、監察機関である御史台も地方に皇帝直属の出先機関を持ちそれぞれ行枢密院、行御史台と呼ばれた。ただし、その数は行中書省よりも少ない。
[編集] 沿革
「行省」の名称自体は元よりも古く、金の時代に中央政府の最高政務担当機関である尚書省の高官が軍を率いて地方に出征したとき、臨時に尚書省の地方出先機関として機能したその幕営が行省と称された。金を滅ぼしたモンゴル帝国にもこの名称が受け継がれ、中国の華北や、中央アジアのオアシス農耕地帯などのモンゴルが征服した定住民居住地域において、モンゴルに帰服した現地人のエリートを官僚に採用してつくらせた徴税・施政機関のことを、金の行省の制になぞらえて漢文では行尚書省あるいは行省と呼んだ。
グユクの死後、帝位をオゴデイ家から奪ったトルイ家のモンケは、地方出先行政機関の行尚書省を改革し、中国担当の燕京行尚書省、中央アジア担当のビシュバリク等処行尚書省、アム川以西のイラン方面担当のアム河等処行尚書の3行尚書省が設置された。
1259年のモンケの急死後、アリクブケとクビライの間で大ハーンの後継者を巡る争いが起こると、モンケに随行していた官僚たちは首都カラコルムに入ってアリクブケの側についた。一方、1260年に内モンゴルでアリクブケに対抗する大ハーンに即位していたクビライは、自派のモンゴル貴族と官僚を構成員として、新たに正式の行政機関として中書省を立てる。これまでモンゴル帝国の国制では、中書省と呼ばれる機関は大ハーンの宮廷に付属された書記官僚(ビチクチ)による中央政府の文書・財務行政処理部局のことであったが、クビライの中書省は唐から金までの尚書省の機能を吸収し、中国の制度にならって新設された六部を配下において秘書・書記機関として命令書の起草から行政機関としての六部の統括までを一手に担う中央の最高行政機関として整備された。そして同年には南宋との最前線である四川に秦蜀行中書省事が任命されて以来、前線で働く将軍に行中書省事の肩書きが与えられ、行中書省と称される彼らの幕営が前線における全権を担うようになった。
クビライの統治が安定するとともに、行中書省は常設の官僚機構として整備されるとともに、首都圏である大都・上都を中心とした腹裏(コル)を除きクビライの支配が及ぶ地域全てをくまなく管轄できるよう増設が繰り返され、クビライが中国に建設したモンゴル帝国内の新政権である元の地方行政制度として定着する。当初の行中書省事には多く漢人の軍人や官僚があてられたが、制度が整うとモンゴル貴族や色目人官僚から中書省の丞相や平章政事に任命される者も増えた。