藤ノ里栄藏
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藤ノ里 栄藏(ふじのさと えいぞう、1901年4月10日-1949年11月29日)は、戦前に活躍した大相撲力士である。青森県南津軽郡藤崎町出身、本名は天内栄三。出羽海部屋所属。最高位は東前頭6枚目(1941年1月場所。後述)。現役時代の体格は167cm、105kg。得意手は左四つ、もろ差し、寄り、押し。
[編集] 来歴
「相撲の神様」と謳われた大関大ノ里の甥。同郷の8代湊川(元関脇綾浪)に入門し、1920年1月場所で初土俵を踏む。四股名は最初から藤ノ里だった。1928年3月場所で十両に昇進、1930年5月場所、29歳にして入幕を果たした。この間、師匠の死に伴って高島部屋(現在の高島部屋とは異なる)、次いで叔父大ノ里のいる出羽海部屋に移った。
しかし自己最高位となる西前頭5枚目で迎えるはずだった1932年1月場所の直前、春秋園事件が勃発する。藤ノ里は大ノ里に従って丁髷を落として協会を脱退したため協会から除名処分を受けて番付は幻となった。以後は関西角力協会の解散まで大ノ里や天竜と行動を共にし、解散とともに協会に帰参したときには36歳になっていた。1938年1月場所、十両格番付外で復帰した。翌5月場所は十両優勝し、1月場所後に大連で死去した大ノ里への手向けとした。
既に取り盛りを過ぎていたものの、復帰から1年後の1939年1月場所には幕内に返り咲き、以後4年8場所にわたって幕内中位から下位で頑張り、1941年1月場所では東前頭6枚目まで昇った(春秋園事件の経緯から、本稿ではこれを最高位としている)。十両に落ちた1943年1月場所を最後に引退、この時41歳と9ヶ月だった。頭が薄くなるまで相撲を取り、「藤ノ里老」とも呼ばれていたが気性は激しかったという。立合いの駆け引きに長け、もろ差しからの一気の寄りがあるかと思えば出ると見せてのとったりで意表をついたりという老獪な取り口を見せた。同じく高齢の大潮との取組は国技館を沸かせた。
引退後は年寄出来山を襲名し、1947年6月限りで協会を離れ、1949年11月29日に48歳で没した。