総力戦研究所
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総力戦研究所(そうりょくせんけんきゅうじょ)は、日本政府が太平洋戦争直前の1941年4月に開所した研究所。各官庁、軍人、民間などから集められた若手エリートを研究生とし、陸海軍軍人を教官として、総力戦体制に向けた講義と研究活動を行った組織である。
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[編集] 概要
本来の目的は『国防』という問題に付いて、陸海軍人と一般文官とが一緒に率直な議論を行う事によって国防の方針と経済活動の指針を考察し、統帥の調和と国力の増強をはかることにあったとされている。第一回研究生で組閣された模擬内閣(首相担当:窪田角一)による日本敗戦を予測した日米戦シミュレーション研究(1941年7月~8月)が有名である。第一期のメンバーは民間6名 軍人5名 官僚25名 他に聴講生1名(閑院宮春仁王中佐)であった。初代所長は、陸軍の飯村穣中将。
日米戦シミュレーション研究は第3次近衛内閣の時に行なわれた。様々なデータを基に日米開戦を分析を行い、それに従った机上演習も行った。選ばれた研究生はそれぞれの出身母体に応じて模擬内閣を組織し、日米戦の戦局展開を予想、模擬内閣では率直な意見交換が行われ、精神論に拘る事が無く資料やデータに基き兵器増産の見通しや、食糧・燃料の自給度や運送経路、同盟国との連携などを科学的に分析を行った。第一期生により研究報告は「緒戦の勝利は見込まれるが、長期戦になり物資不足は決定的となり、ソ連の参戦もあって敗れる」という開戦前から既に(真珠湾攻撃と原爆投下を除くと)ほぼ史実通りとなる「日本必敗」の結論を導き出した。この報告は昭和16年8月に、当時の近衛内閣にも報告された。なお、一期生は1942年3月まで、研究・研修を継続し、3月にて終了となった。
メンバーのある者(秋葉武雄:同盟通信社からの出向者)は、後にシンガポールでミッドウェー海戦の敗北を渡辺渡軍政部長(大佐、元同研究所所員)から聞いて、海軍の敗北が早すぎると感想を漏らしたという。
1942年4月に第二期生39名を、1943年には第三期生40名を受け入れている。第三期生は1943年12月に研究・研修を終了し、これ以降、総力戦研究所は事実上閉鎖となった。