粛軍クーデター
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粛軍クーデター | |
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各種表記 | |
ハングル: | 12·12군사반란 |
漢字: | 12·12軍事叛亂 |
平仮名: (日本語読み仮名) |
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片仮名: (現地語読み仮名) |
シビシビクンサパルラン / シビシビクーデター |
ラテン文字転写: | {{{latin}}} |
英語: | Coup d'état of December Twelfth |
粛軍クーデター(しゅくぐん-)は1979年に大韓民国で起きた軍内部の反乱事件。
1979年10月26日、朴正煕大統領が暗殺(朴正煕暗殺事件)されると、崔圭夏国務総理が大統領権限代行に就任し、12月6日には統一主体国民会議代議員会で第10代大統領に選出された。
崔圭夏の選出はあくまで維新体制の枠内でのことだったが、選出された大統領が文民であることから独裁体制が緩和されるという期待が膨らみ、ソウルの春と呼ばれる民主化ムードが台頭した。
一方、朴正煕暗殺事件の捜査過程において、戒厳司令官の任にある鄭昇和陸軍参謀総長と合同捜査本部長の任にあった保安司令官全斗煥陸軍少将が対立。さらに全斗煥や第9師団長盧泰愚陸軍少将が中心となって組織された秘密組織「ハナ会」を軍中枢より排除しようと試みたことにより、12月12日鄭昇和参謀総長を公邸で逮捕した。 (朴正煕暗殺事件の発生時、金載圭から飲食の誘いを受けた事により、事件現場から至近距離にいながらすぐに逮捕しなかったことで、共謀の疑いをかけられた)
戒厳司令官の逮捕には大統領の許可が必要であるため、全斗煥が崔圭夏大統領権限代行に裁可を得ようとするが「国防長官の承認なしには絶対に決裁しない」と拒まれたため、国防長官の「捜索」を 始める。なお当時の国防長官盧載鉉本人は陸軍参謀総長公邸への銃撃を共産ゲリラによる襲撃と誤認し家族と一緒に避難していた。
また参謀総長公邸を強襲したため、各部隊や警察が現場で入り乱れて銃撃戦に発展し、更には在韓米軍との協議なしに前線部隊がソウルへ向かうなど内戦寸前の状態に陥るが、その後に全斗煥側の部隊である第1空輸(空挺)旅団により、国防部や陸軍本部が占領され、盧載鉉国防長官も「確保」されてしまう。
盧載鉉は全斗煥らの圧力に屈し、すぐさま戒厳司令官逮捕を決裁し、崔圭夏大統領権限代行に裁可を求めることとなった。 崔圭夏は国防長官の対応のまずさを非難し、戒厳司令官逮捕後による事後承認は認めないと突っぱねたが、崔圭夏自身が軍部を掌握しておらず事態を収拾するためには、保安司令部と「ハナ会」を中心に決行された反乱を黙認せざるをえなかった。
ここに全斗煥や盧泰愚たちが軍部の実権を掌握した。ここまでの段階ではクーデターと呼ばれるが軍内部の反乱であった。
政権を奪取するという意味でのクーデターに該当するのは、むしろこれ以降の1980年の全国非常戒厳令から光州事件に至る過程である。これによって崔圭夏を辞任に追い込み、新軍部が実権を握るに至ったからである。
朴正煕政権時代に似た軍部独裁を志向する新軍部に抗議して大規模な学生デモが発生したが、1980年5月17日の軍事クーデターによる全国非常戒厳令とそれに抵抗する光州事件で弾圧され、同年8月崔圭夏大統領は新軍部の圧力の下に辞任、9月1日には全斗煥将軍が統一主体国民会議代議員会で第11代大統領に選出された。この新体制を第五共和国(五共)という。
後の金泳三政権下で、全斗煥・盧泰愚らは光州事件と政権奪取の首謀者として捜査対象となったが、刑法では時効が援用されて全斗煥・盧泰愚は内乱罪に問われなかった。しかし直後に、粛軍クーデターが全斗煥将軍らの軍刑法における反乱罪にあたると認定された。