第五福竜丸
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第五福竜丸(第五福龍丸、だいごふくりゅうまる)は、1954年3月1日アメリカの水爆実験によって発生した多量の放射性降下物(いわゆる死の灰)を浴びた遠洋マグロ漁船の船名。無線長久保山愛吉がこの半年後の9月23日に血清肝炎で死亡した。
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[編集] 被爆事件
1954年3月1日、第五福竜丸はマーシャル諸島近海において操業中に、ビキニ環礁で行われた水爆実験(キャッスル作戦・ブラボー(BRAVO)、1954年3月1日午前3時42分実施)に遭遇し、船体・船員・捕獲した魚類が放射性降下物に被曝(間接被爆)した。(放射能に曝(さら)されるのは「被曝」であるが、原水爆に晒されることは「被爆」という。)実験当時、第五福竜丸は米国が設定した危険水域外で操業をしていた。危険を察知して海域からの脱出を計ったが、延縄の収容に時間がかかり、数時間に渡って放射性降下物の降灰を受け続けることとなり、第五福竜丸の船員23名は全員被曝した。後に米国は危険水域を拡大、第五福竜丸以外にも危険区域内で多くの漁船が操業していたことが明らかとなった。この時の水爆実験で放射性降下物を浴びた漁船は、数百隻にのぼるとみられ、被曝者は2万人を越えるとみられている。 この予想以上の深刻な被害は、当初米国がこの爆弾の威力を4~8Mtと見積もり、危険区域を狭く設定した事が原因である。爆弾の実際の威力は、その予想を遥かに超える15Mtであった為、安全区域にいたはずの多くの人々が被曝することとなった。
第五福竜丸の水爆災害(とりわけ久保山が「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と遺言して息を引き取った事)は、当時の日本国内に強烈な反核運動を起こす結果となった。反核運動が反米運動へ移ることを恐れた米国は日本政府との間で被爆者補償の交渉を急ぎ、総計200万ドルの補償金と「米国の責任を追及しないこと」の確約を日本政府から受け、事件の決着を図った。また事件が一般に報道されると「放射能マグロ」の大量廃棄や、放射能に対する漠たる不安感から魚肉の消費が落ち込むなど生活にも大きな影響を与えた。
広島、長崎の原爆投下によって「日本は被爆国」であるとされるが、この第五福竜丸の被爆を含め、「広島、長崎、第五福竜丸」と日本国民は原子爆弾・水素爆弾と両核爆弾の被爆(被曝)体験を持つ国民となった。
[編集] 第五福竜丸の沿革
1947年、和歌山県東牟婁郡古座町(現:串本町)でカツオ漁船第七事代丸(だいななことしろまる)として進水。その後静岡県焼津市でマグロ漁船に改造され、第五福竜丸(第五福龍丸)となる。1954年3月1日に間接被爆。9月14日に焼津港に帰港し、鉄条網が張られた状態で係留されて科学者の検査を受けていたが、文部省(現:文部科学省)が船を買い上げ、8月に東京水産大学(現:東京海洋大学)品川岸壁に移される。
この後さらに検査と放射能除去が行われた後に三重県伊勢市の強力造船所で改造され、東京水産大学の練習船はやぶさ丸となる。この時代の母港は千葉県館山市。
1967年に老朽化により廃船となり、使用可能な部品だけが抜き取られた後に東京都江東区夢の島の隣の第十五号埋立地に打ち捨てられるが、同年、東京都職員らによって再発見されると保存運動が起こり、現在は東京都によって夢の島公園の「第五福竜丸展示館」に永久展示されることとなった。
心臓部であるエンジン部分は船体から切り離されて、貨物船「第三千代川丸」に搭載されていたが、その貨物船は1968年、航海途上、三重県熊野灘沖で座礁、沈没した。その28年後の1996年12月、平和を願う人々(「第五福竜丸エンジンを東京・夢の島へ」和歌山県民・東京都民運動)によって海底から引き揚げられ、第五福竜丸展示館の脇に展示された。
- 総トン数:140.86t
- 全長:28.56m
- 幅:5.9m
- 馬力:250
- 速力:5ノット
[編集] 第五福竜丸を主題とした作品
- 『第五福竜丸』:事件の5年後の1959年に新藤兼人監督によって同名の映画が作られ、事件の半年後に死亡した久保山愛吉を宇野重吉が演じた。
- ベン・シャーンにより同船を主題とした連作絵画『ラッキードラゴン』が描かれている。
- 岡本太郎作「明日の神話」
- ベン・シャーンの連作絵画『ラッキードラゴン』などを用いた創作絵本『ここが家だ-ベン・シャーンの第五福竜丸』 絵=ベン・シャーン 構成・文=アーサー・ビナード(中原中也賞受賞の、アメリカ生まれの日本語詩人)
- NHK・特集ドキュメンタリー「廃船」
- ヘルベルト・アイメルト 久保山愛吉のための墓碑銘 Epitaph für Aikichi Kuboyama (朗読を伴う電子音楽作品)