稲田大二郎
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稲田 大二郎(いなだ だいじろう、1947年 - )は、日本のチューニングカーコメンテーター。愛称は『Dai』。他にも『GOGO』、『不死身の男』(後述)、『暴走機関車』とも呼ばれている。長崎県出身。学習院大学除籍[1]。
自動車雑誌『Option』の創設者であり、全日本プロドリフト選手権(D1グランプリ)の生みの親として有名。
[編集] 略歴
若い頃は雨宮勇美率いるRE雨宮に所属し、東名高速道路にて日野・コンテッサでキャノンボールレースをしていたという、後に日本のヤンキー文化を創造する筋金入りの暴走族だった。そこで当時、ミラー部分1つを変えたり、タイヤをインチアップしたりするだけでも違法改造として警察に厳しく取締まられるという不条理さに疑問を持った事が後の『Option』創刊のきっかけとなった。
チューニングカーの世界では常に第一人者として君臨しており、レーシングドライバー以外では、もっとも最高速に慣れ親しんでいる人物である。『Option』や『Video Option』で発表された形としては、1991年にアメリカのボンネビルスピードウェイにて、究極とまで言われたVG30DETTを搭載されたJUNオートメカニックチューンの日産・フェアレディZ(Z32)に乗り、E/BMSクラスにおいて419.84km/hをマークしワールドチャンピオンに輝き、世界的にJUNの名を広めるきっかけとなった(正確にはこの速度でエンジンブローしてしまったのだが、この記録は今も破られていない)。ちなみにこの時は、JUNオートメカニックフェアレディZの制作者である小山進が同一車両にて421km/hのワールドレコードを叩き出している。また、コースをクローズせず、完全な一般車交じりのドイツ・アウトバーンにてBLITZ・R-348を駆り、343.35km/hという、非公認だが一般公道世界最速記録を叩きだしている(クローズドコースでは9ffチューンのポルシェ・911が388km/h、一般道をクローズした物を用いた記録はポルシェ・911の347km/hが世界記録となっている。また、スピード違反で捕まった最高速記録はスモーキー永田がイギリスのモーターウェイ(M1)で記録した317km/h(車載のロガーデータの記録であるが、イギリスのデイリー・ミラーでは210マイル(約340km/h)を出していたと報じている)である)。
高い人望(チューニングカーの世界では第一人者やOptionの創刊者でありながら最高速やドリフトをしていたりと体を張ったことをしている為)の持ち主でレーシングドライバーでは土屋圭市、野村謙(D1選手)、星野一義、高橋国光のような人達と交流を持ちながらも、チューニング関係では上記に書いているRE雨宮、ヤシオファクトリー(自身の車の修理やチューニング。なお社長の岡村和義社長とはD1ストリートリーガルにて「おやじドリフターズ」として参戦している)、トップシークレット(ストリームZ GT Jr.製作)、JUNオートメカニック(ストリームZ等)とモータースポーツ関係で有名な人物をあげれはこれだけですまない。
『Option』創設当時から、チューニングカーの普及に努めており、東京オートサロンの前身であるエキサイティングカーショーの発起人でもある。近年ではキャンペーンガールにまみれた東京オートサロンを批判的に思い、純粋なチューンドカーだけを集めようとの思いでオートサロンとは別にエキサイティングカー・ショーダウンも開催される。オートサロンでチューンドカーの地位向上を図ると同時に「走るからこそ環境を考えよう」のキャッチフレーズを持ち、『Option Land』としてNPO活動もしている。
『Option』の最高速企画は、ちょっとしたミスで死亡事故につながるため、相当の集中力を要するはずなのだが、ほぼすべてを引き受けている。これは300km/hを超える領域ではリスクが高すぎるため、将来有望な若者を潰す訳にはいかないというポリシーを持っているためである。
以前は300km/hに届きそうも無い車では他の人を乗せることがあったのだが、当時『Option2』編集長であったマサ・サイトーこと斎藤政夫が最高速記録テスト中に事故で他界してしまった。 これを相当悔やんでいるのか、それ以降はチューナー自らハンドルを握る時以外は、どんな速度域でも稲田がハンドルを握っている。
年齢による体力と判断力の低下のため、2006年9月のシルバーステイツを最後に公道最高速企画を引退した。結局世界最速の称号はボンネビル、ニュージーランド、シルバーステイツの3ステージ全てで達成する事が出来なかった。
しかし、現在新たなるチャレンジとして稲田自身が考案したD1ストリートリーガルにトップシークレットのスモーキー永田が開発したストリームZ GT Jr.(180SXをベースにフロントがフェアレディZ、リアがスカイラインというチューニングカー)で最高齢選手として参戦中。
[編集] エピソード
『Option』や『Video Option』内にて「不死身の男」と書かれる事が多いのだが、これには理由がある。
- 300km/hをゆうに超えるスピードが出る谷田部高速試験場にて、バンク内でガードレールにぶつけたがそのまま走行。
- 同じく谷田部にてバンク内でコントロールを失う事があったがそのまま停止。
- バンク内にてタイヤバーストが起きたがそのまま停止。
- 300km/hで走行中、鳥がグリルへ突き刺さった事があったのだが、そのまま走行。
- 速度を恐れてアクセルを抜いた車は今のところ2台しかない(1台はスカイラインGT-Rのエンジンを搭載したシルビア、だが、速度に恐れた訳ではなく、ボディ剛性が低すぎて危なかったからである)。
- ダートオーバルにて横転した事があるが無傷。
- 谷田部トライアル中にスカイラインGT-Rで犬を轢いてそのまま走行(速度は300kmを超えていたと言う)。
- 実物大ラジコンレースでは、ほかのどの選手よりも異常に速いペースで周回し、コース横断やサイドチャージなどを多発したが、なんとか無事にゴールして岡村社長とともに敢闘賞(?)を受賞した。
- トレインカーレースで搭乗していた日産・パルサー(N15)が、第2ヒートの最後の最後で、溝にタイヤを引っかけ横転。しかしかすり傷ひとつも負わずに、またもや岡村社長とともに敢闘賞を受賞した。
- 8の字レースでドライブ中、エンジンから出火したが、あわてふためくことなく冷静に助手席側から脱出。
などであるが、特筆すべきなのは、2003年にJUNオートメカニック製作のストリームZ 1号機で参加したシルバーステイツでの大事故だといえる。この事故では344km/hで左リアタイヤがバーストし、そのままアクセルを抜き、ギアチェンジを繰り返しつつ、暴れるハンドルを抑え240km/hまでおよそ100km/hも減速したところで遂に抑えきれなくなり、スピンからの横転で10回転してしまい、彼の生死が心配された。しかし稲田大二郎の不死身ぶりはここでも発揮される事となる。この大事故にもかかわらず、打撲とムチ打ちのみで無事生還してしまった。
これらのことから、一部では「人間でない未知の生命体」「死神に嫌われた男」「死後の世界から追放された男」との声もささやかれているという。
土屋圭市とはアマチュア時代からの師匠のひとりである。土屋によると青年時代に東京に来たとき、寝る場所もなかったということから、稲田の計らいで雑誌Optionの編集部で寝泊りさせてもらったというエピソードがあり、また、峠アタックのビデオ「ザ・峠」を発禁処分にされ、日本自動車連盟(JAF)からライセンスを剥奪されそうになったときも、真っ先に助けたのは他ならぬ稲田であったという。
[編集] 脚注
- ^ 『Video Option』Vol.145のDVDボーナストラックにて、自分の口から除籍と言っている。