石原萠記
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石原 萠記(いしはら ほうき、1924年11月5日 - )は、日本の社会民主主義運動家。旧日本社会党右派のイデオローグ。ソ連(ロシア)、中華人民共和国、韓国との文化交流、友好親善に努めている。出版社「自由社」の社長。日本対外文化協会副会長。日本出版協会理事長。STV-Japan取締役。「萠」は俗字で、人名漢字を使用して「石原萌記」と表記されることも多い。
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[編集] 経歴
1924年11月5日、山梨県甲府市百石町の染物店の二男として生まれる。1944年、早稲田大学在学中に陸軍に応召。1945年、中国・漢口の第6方面軍司令部参謀部で終戦を迎え、1946年、上海から博多に復員。その後、東洋大学史学科で考古学を学ぶ。日本共産党員だった渡辺恒雄(現読売新聞主筆)や河合武(社会思想家の河合栄治郎の長男)らと学生運動を行う。日本共産党の影響下にあった「民主主義科学者協会」(民科)の歴史部会に出入りし、石母田正、藤間正大、松本新八郎ら共産党系歴史学者の研究に傾倒していた時期もあった。1951年卒業。
学生時代から右派社会党の衆議院議員、三輪寿壮の下で革新運動を行い、卒業後は郷里の山梨県に入り、県議や古い党員を次々と除名して右派社会党山梨県連を再建。衆院選出馬を準備していた。河上丈太郎(元社会党委員長)とは、長男・民雄(元社会党衆議院議員)が留学から帰国する際に書籍の整理を依頼されるほどの仲だった。
1956年、「日本文化フォーラム」の設立に参画(当初は事務局長、後に専務理事)。1959年、自由社を設立し、月刊誌「自由」を創刊。
東海大学総長や社会党衆議院議員を務めた松前重義と親しく、「現代の巨星」と絶賛。1966年、ソ連政府の提案によるソ連・東欧との交流組織「日本対外文化協会」(対文協)を松前とともに設立した(現在副会長)。日本対外文化協会、日ソ友好議員連盟、日ソ親善協会、日ソ交流協会、日ソ貿易協会の対ソ関係5団体とソ連の官製対日友好組織が主催して1979年から1988年まで開催された「日ソ円卓会議」では政治部会の座長を務めるなど中心的役割を果たした。日ソ円卓会議の内容は「自由」誌上に掲載された。松前は自由社の取締役を務めた。
1972年、新しい社会主義を検討するため「変貌する社会と社会主義 国際セミナー」を社会主義インターナショナルなどと共催。このセミナーを機に江田三郎(元社会党書記長)と親しくなり、社会党離党の相談を受けるなど政治的盟友となった。
社会民主主義の信念から、社民・中道勢力による自民党政権打倒を目指した。1972年、江田三郎、矢野絢也(公明党書記長)、佐々木良作(民社党書記長)を、西ドイツで大連立を成功させた首相(ドイツ社会民主党党首)、ヴィリー・ブラントと会談させることを企て、8月28日にミュンヘン郊外で実施する準備を進めたが、マスコミに察知され中止となった。1990年には、松前重義とともに、土井たか子(社会党委員長)、永末英一(民社党委員長)、江田五月(社民連代表)や山岸章(連合会長)らに対し、西欧型の社会民主主義政権の樹立を目指す「社会民主主義研究会」の設立を呼び掛けた。
[編集] 歴史認識
政治思想は反共産主義を明確にし、保守言論人に分類されることも多いが、中国や韓国との相互理解を強調し、日中戦争や太平洋戦争の戦争責任は昭和天皇にあると繰り返し表明している。また、沖縄戦の集団自決についても軍の命令だったとの立場をとっている。このため、新しい歴史教科書をつくる会が教科書の新たな発行元に自由社を選んだことに疑問の声が出ている。
[編集] 家族構成
妻、信子は自由社監査役。長男、寿記は鹿児島地方裁判所・鹿児島家庭裁判所の部総括判事(裁判長を務める判事)。長女、圭子は東海大学教授。寿記の名付け親は三輪寿壮で、「寿」の文字を与えた。圭子は松前重義の縁故で東海大学平和戦略国際研究所の助手として採用され、その後、講師、助教授、准教授となった。また、石原の妹(故人)は三輪の秘書を務め、三輪の死後は松前の秘書となった。このように石原と社会党関係者の交際は家族ぐるみだった。
[編集] 著書・編著・共著
- 『江田三郎-そのロマンと追想』(『江田三郎』刊行会、1979年)
- 『韓国・北朝鮮統一問題資料集』(自由社、1979年)
- 『三宅正一の生涯』(三宅正一追悼刊行会、1983年)
- 『追憶-裏方政治家に徹した松井政吉先生』(いわき社会問題研究会、1994年)
[編集] 訳著
- 張香山著『日本回想-戦前、戦中、戦後想い出の記』(自由社、2003年)