白丁
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白丁(はくちょう、はくてい)とは中国と日本の律令制において、公の職を持たない無位無冠の良民の男子のことを指す。無位無冠のものは、色を付けた衣を身に着けず白い衣を着けたことからそう呼ばれていた。
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[編集] 日本
日本の律令制度下では「ハクテイ」と呼ばれた。無位無官の公民。官司に雇われる場合は舎人に採用され、または文章生などの学生に及第することによって、無位から昇進することもあったが四位がほぼ最高位であり、それ以上の昇進はほぼなかった。後にこうした規定も空文化されていくことになる。
また、官司の雑務に就いていても、白丁である限りは租庸調などの租税は免除されなかった。
[編集] 朝鮮
李氏朝鮮においては「백정」(ペクチョン/ ペッチョン)と呼び、七般公賤(官奴婢、妓生、官女、吏族、駅卒、獄卒、犯罪逃亡者)八般私賤(巫女、革履物の職人、使令:宮中音楽の演奏家、僧侶、才人:芸人、社堂:旅をしながら歌や踊りで生計をたてるグループ、挙史:女連れで歌・踊り・芸をする人、白丁)と言われた賤民(非自由民)のなかで最下位に位置する被差別民を指す言葉である。起源については大別して神話説と異民族説と政治犯説が唱えられているが、有力視されているのは異民族説である。高麗に帰化したイスラム系民族である韃靼族が政治の混乱に乗じて略奪を繰り返し、差別を受けるようになったのが白丁の起源であるとされている[1]。
朝鮮半島で白丁が受けた身分差別は、以下のようなものである[1]。
- 族譜を持つことの禁止。
- 屠畜、食肉商、皮革業、骨細工、柳細工以外の職業に就くことの禁止。
- 常民との通婚の禁止。
- 日当たりのいい場所や高地に住むことの禁止。
- 瓦屋根を持つ家に住むことの禁止。
- 文字を知ること、学校へ行くことの禁止。
- 他の身分の者に敬語以外の言葉を使うことの禁止。
- 名前に仁、義、禮、智、信、忠、君の字を使うことの禁止。
- 姓を持つことの禁止。
- 公共の場に出入りすることの禁止。
- 葬式で棺桶を使うことの禁止。
- 結婚式で桶を使うことの禁止。
- 墓を常民より高い場所や日当たりのいい場所に作ることの禁止。
- 墓碑を建てることの禁止。
- 一般民の前で胸を張って歩くことの禁止。
これらの禁を破れば厳罰を受け、時にはリンチを受けて殺された。その場合、殺害犯はなんの罰も受けなかった。白丁は人間ではないとされていたためである。
白丁は大抵、都市や村落の外の辺鄙な場所に集団で暮らし、食肉処理、製革業、柳器製作などを本業にしていた。白丁と常民の結婚は許されておらず、居住地域も制限された。また、高価な日常製品の使用も禁止されていた。農業や商業に従事することは禁止されていたが、李氏朝鮮中期になるとこの規制は緩み、農業などに従事していた者もいたようである。一方、国の管理に属さない化外の民であったため、戸籍を持たず税金や軍布(徴兵の変わりに収める布税)なども免除されていた。奴婢が国により管理されていたのとは対照的である。支出や行動が厳しく規制される反面、本業による手数料などを得ることができたことや、両班階級が財産を没収することすら忌み嫌ったために、李氏朝鮮時代に繰り返し行われていた庶民に対する過酷な財産徴収なども受けず、李氏朝鮮の中では唯一資本蓄積が可能な階級だったとも言われている。
免賤と言われる白丁階級からの解放もあったが、滅多に行われなかった。当然、中には「白丁だって人間だ」と主張して、解放運動を行う者もいたが、その運動家までもが「新白丁」として差別を被る事となってしまった。高宗時代の甲午改革の後、白丁の身分から解消され国家官吏になる者も現れたが、差別は相変わらず残った。1923年に白丁差別解消のための朝鮮衡平社が作られ、日本の水平社と協力して身分差別解消の運動を行っていた。1926年の朝鮮総督府の統計調査によると、当時の朝鮮半島の白丁は8211世帯、3万6809人にのぼる。職業の内訳で最も多いのは獣肉販売業で27.8パーセント。これに屠畜、製革、製靴など牛に関係する一連の職業をあわせると48.8パーセント。農業が25.2パーセント。柳器製造が10.6パーセント。飲食店や低級旅館の経営が5.8パーセントであった。
韓国においては、罵倒語として「白丁」(ペクチョン)「白丁野郎(ペッチョンノム)」という言葉が使われることがある。
北朝鮮は、「社会主義社会の下では、白丁問題は既に解決している」と回答しているが、実際には韓国の大統領を「人間白丁」と罵るように、差別意識は根強い。