甘露寺愛長
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甘露寺 愛長(かんろじ なるなが、文化4年12月8日(1808年1月5日) - 安政6年7月6日(1859年8月4日))は、江戸時代後期の公卿。藤原北家勧修寺流。従一位権大納言甘露寺国長の次男。母は権大納言冷泉為章の娘。兄弟に甘露寺治長・竹内惟和室・小倉輔季・甘露寺妍子(仁孝天皇後宮)らがいる。兄治長の養子となり、甘露寺家を継いだ。正室は権中納言今城定成の娘で、他に藤本重武の娘も妻とした。子に甘露寺勝長・竹園用長・堤功長(堤哲長養子)・中川興長・梅渓通善室がいた。
蔵人頭を経て、弘化4年(1847年)参議となる。その後、権中納言に至る。安政5年(1858年)、江戸幕府の日米修好通商条約勅許奏請に先立ち、その可否について納言の一人として孝明天皇の勅問を受けた。安政6年(1859年)7月6日、53歳で薨去。
[編集] 参考文献
- 小和田哲男『日本史諸家系図人名辞典』講談社、2003年。
- 近藤敏喬編『宮廷公家系図集覧』東京堂出版、1994年。