燕山君
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燕山君 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 연산군 |
漢字: | 燕山君 |
平仮名: (日本語読み仮名) |
えんざんくん |
片仮名: (現地語読み仮名) |
ヨンサングン |
ラテン文字転写: | Yeonsan-gun |
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燕山君(ヨンサングン、えんざんくん、1476年10月7日 - 1506年11月6日、在位:1494年12月29日 - 1506年9月2日)は李氏朝鮮の第10代国王。第11代国王中宗の異母兄。名は㦕[りっしんべんに隆](以下の記述には代字として「隆」の字を使用する)。第7代国王世祖の曾孫で、朝鮮王朝史上前例のない暴君[1]として知られ、「朝鮮のネロ[要出典]」、もしくは「朝鮮の始皇帝」と呼ばれている。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 誕生から即位
第9代国王成宗の長男として生まれた。母は廃妃尹氏(斉献王后)。生母尹氏は、成宗の最初の王妃であった恭恵王后・韓氏が1474年に死去すると正妃の位に登ったが、悋気強く、成宗と関係した女官を殺害するなどした。さらには成宗の顔に傷をつけたため、1482年、王命により賜薬(死薬)を下された。[2]
尹氏が死んだ当時まだ幼かった隆は、成宗の新しい王妃になった貞顕王后を実母とだまされて暮したと言う。
その後、長男であった隆は、1483年に7歳で王世子(皇太子)に冊封されたが、性格粗暴のうえ、勉学を嫌い、王位後継者として相応しくないという意見があった。成宗もこれに同意していたが、廃嫡の決断をすることもできず歳月が過ぎ、1494年成宗が崩御すると、18歳でそのまま王位に登った。王妃は居昌慎氏。
即位当初は、人才及び士林がそのまま維持されていたため、学問を奨励した成宗時代の気品と秩序は維持されていた。燕山君は貧民を救済して、「国朝宝鑑」など多くの書籍を編纂し、外勢の侵略を阻んで城を築くなど、安定した政治を行った。
[編集] 士禍そして失脚
しかし時がたつにつれて、燕山君は徐々に内面に隠されていた本来の性格を見せ始め、治世4年後から悪行が目立ち始めた。燕山君は2度にわたって士林派に対する粛清事件(士禍)を引き起こした[3]。また戚臣のひとり、任士洪(イム・サホン)[4]がそそのかして、生母尹氏誅殺に関係した者を捕らえて処刑している[5]。
燕山君は多数の妓生を引き連れて遊興にうつつを抜かし、諫言する功臣たちはことごとく残酷な刑罰で処刑、朝鮮王朝史上まったく前例を見ない極悪かつ冷酷非情な君主となった。あまりの暴虐かつ傍若無人な振る舞いに臣下の離反を招き、1506年9月に朴元宗(パク・ウォンジョン)、成希顔(ソン・ヒアン)らが企てたクーデターによって燕山君は失脚し、江華島に追放、王位を剥奪されて燕山君に封じられた[6]。また正妃慎氏も同時に廃されている。
配流からおよそ2ヵ月後、燕山君は30歳という若さで病死した[7]。暴君として廃された王であるため、廟号、尊号、諡号、陵名はない。後継には成宗の次男で燕山君の異母弟である晋城大君(チンソンデグン)懌(のちの中宗)が推戴された。
[編集] 脚注
- ^ 一部では暗君との見方も。
- ^ 名門出身だった太后や他の妃たちとの勢力争いに敗れて死に追いやられたのが真相だという主張もある。
- ^ 歴代の朝鮮国王のなかで2回も士禍を引き起こしたのは唯一、燕山君のみである。
- ^ ちなみに彼は先代君主・成宗の時代には配流されていた。
- ^ 1504年に起こった甲子士禍。
- ^ この時燕山君の戚臣である任士洪と燕山君の寵姫である張緑水(チャン・ノクス)は反対勢力の手により処刑された。
- ^ 配流先の江華島で餓死したという説もある。
[編集] ドラマと映画における燕山君
燕山君の劇的な生涯は現代韓国の映画やテレビドラマの題材になることが多く1988年には林權澤による監督映画「燕山日記(ヨンサンイルギ)」が公開され、2003年にはキム・ヨンヒョン脚本による連続テレビドラマ「大長今(テジャングム)」(日本版タイトル『宮廷女官チャングムの誓い』)が放送された。このドラマの主人公ソ・ジャングム(チャングム)は、燕山君の生母尹氏誅殺に関与したとして捕らえられた元武官の娘である。
[編集] 関連項目
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