成宗 (朝鮮王)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
成宗(ソンジョン、せいそう、1457年 - 1494年)は、李氏朝鮮の第9代国王(在位:1469年 - 1494年)。姓は李、名は娎。諡は康靖仁文憲武欽聖恭孝大王。君号は者山君、のち乙山君。
第7代国王世祖の第1王子李暲(徳宗・トクジョン・とくそう、1438年 - 1457年)の第1王子。母は仁粹王妃(インスワンビ、じんすいおうひ。成宗が崩御し、第1王子・燕山君が即位してからは仁粹大妃(インスデビ、じんすいだいひ)に昇格。1437年 - 1504年)。前王睿宗は叔父にあたる。成宗は王道政治を貫き通した明君として知られており、士林派を積極的に登用したのも成宗の時代に入ってからである。
目次 |
[編集] 世祖~中宗の略系図
7世祖━ | ┳ | 李暲(徳宗) | ━━ | 9成宗━ | ┳ | 10燕山君 |
┗ | 8睿宗 | ┗ | 11中宗 |
[編集] 生涯
成宗は世祖の長男である懿敬世子(後に徳宗と追尊)と王世子嬪韓氏(昭恵王后と追尊)の二男として生まれた。幼い頃から聡明で度量が広く、世祖から太祖に似ていて気性と学識に優れているだろうという称賛を受けるほど、とても可愛がられたという。
1461年、5歳の時に者山君に、後に者乙山君に封ぜられたが、懿敬世子の弟である海陽大君が睿宗として即位してわずか1年2ヶ月で崩御すると、当時睿宗の息子は4歳で、また兄の月山大君は病気だったので、貞熹王后の命によって1469年11月28日に朝鮮国王に即位した。13歳の若い年で王位に就いたので、即位当初には大王大妃となった貞熹王后の垂簾聴政を受けた。当時有力な国王候補たちを皆追い抜いて韓明澮と貞熹王后の意向によって王位に就いたので、摂政を受けた7年間の国政の全決定権は申叔舟、韓明澮などの元老大臣にあった。
しかし垂簾聴政を終わらせた1476年からは、元老大臣が国政の重要な決定に参加する院相制度を廃止して決裁権を取り戻し、任士洪、柳子光らの功臣たちを流配にさせる一方、新進勢力を果敢に登用することで士林勢力の政治的基盤を作った。
成宗の治世は“文化の黄金期”と呼ばれるほど、世宗と世祖が成した政治的功績を土台に輝く文化政策を拡大させた時期であった。1474年には『経国大典』を完成、頒布し、1492年には経国大典を補った『大典続録』と『東国輿地勝覧』、『東国通鑑』、『楽学軌範』など多様な書籍を編纂、刊行した。世祖代に廃止された集賢殿と似た役割を引き継いだ弘文館を設置する一方、文臣中、すぐれた才を持った人物を選んで家で読書するようにさせる賜暇読書(湖堂制度)を実施するなど文化的発展に貢献した。また僧侶たちを厳しく統制して、大部分の寺院を閉鎖するなど崇儒抑仏政策を徹底的に実践した。対外的には鴨緑江周辺の女真族を追い出して、豆満江地域の女真族の巣窟を掃討、辺方を安定させた。
李氏朝鮮時代初期の文物制度は成宗の代にほとんど完成され、民衆は建国以来最も太平聖代な歳月を迎えた。しかしこのような太平聖代は、成宗の治世後半に頽廃的風潮を助長したりした。
在位期間25年の間始終善政を敷いた成宗は、1494年12月24日に38歳で崩御した。御陵は宣陵。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
[編集] 王子
[編集] 王女
- 順淑公主
- 慎淑公主
- 恵淑翁主
- 徽淑翁主
- 恭慎翁主
- 慶順翁主
- 慶淑翁主
- 静順翁主
- 淑恵翁主
- 慶徽翁主
- 徽静翁主
- 静恵翁主
- 静淑翁主
[編集] 関連項目
|
|