渋川春海
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渋川 春海(しぶかわはるみ、しぶかわしゅんかい)、寛永16年閏11月(1639年) - 正徳5年10月6日(1715年11月1日)は、江戸時代前期の天文暦学者、囲碁棋士、神道家。幼名は六蔵、字は春海、順正(晴海とも)、通称は助左衛門、号は新蘆・都翁、霊社号は土守霊社。貞享暦の作成者。姓は安井から保井さらに渋川と改姓した。
江戸幕府碁方の安井家1世安井算哲の子として京都に生まれた。1652年、父の死によって2世安井算哲となるが、安井家はすでに1世算哲の養子算知が継いでいたため保井姓を名乗った。そして万治2年(1659年)には17歳で御城碁に初出仕して、本因坊道悦に黒番4目勝ちした。
数学・暦法を池田昌意に、天文暦学を岡野井玄貞に、垂加神道を山崎闇斎に、土御門神道を土御門泰福に学んだ。当時の日本は貞観4年(862年)に唐よりもたらされた宣明暦を用いていたため、かなりの誤差が生じていた。そこで中国の授時暦に日本向けに改良を加えて大和暦を作成した。春海は朝廷に大和暦の採用を求めたが、京都所司代稲葉正往家臣であった谷宜貞(一齋・三介とも。谷時中の子)が、春海の暦法を根拠のないものと非難して授時暦を一部修正しただけの大統暦採用の詔勅を取り付けてしまう。その後、春海は暦道の最高責任者でもあった土御門泰福を説得して大和暦の採用に同意させ、3度目の上表によって大和暦は朝廷により採用されて貞享暦となった。これが日本初の国産暦となる。この功により貞享元年12月1日(1685年1月5日)に初代幕府天文方に任ぜられ、碁方は辞した。以降、天文方は世襲となる。
囲碁の打ち方へも天文の法則をあてはめて、太極(北極星)の発想から初手は天元(碁盤中央)であるべきと判断している。寛文10年(1670年)10月17日の御城碁においては、本因坊道策との対局において実際に初手天元を打っており、「これでもし負けたら一生天元には打たない」と豪語した。しかしこの対局は9目の負けに終わり、それ以後初手天元をあきらめることとなった。
元禄15年(1702年)に渋川に改姓した。これは、先祖が河内国渋川郡を領していたが、播磨国安井郷に変わり、再び渋川の旧領に還ったためである。著書に「日本長暦」・「三暦考」・「貞享暦書」がある。