稲葉正往
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時代 | 江戸時代前期 | |||
生誕 | 寛永17年11月10日(1640年12月22日) | |||
死没 | 享保元年10月9日(1716年11月22日) | |||
別名 | 宇右衛門・義雅・正通 | |||
諡号 | 子泰憲潮信軒 | |||
戒名 | 仁裕竜沢高徳院 | |||
藩 | 相模小田原→越後高田→下総佐倉 | |||
父母 | 父:稲葉正則、母:毛利秀元の娘 | |||
妻 | 正室:保科正之の娘 継室:持明院基定の娘 継々室:田辺某の娘 |
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子 | 稲葉正知(次男)、娘(松平定直正室) 娘(小笠原長円正室) 養女(正則の娘、土井利知正室) |
稲葉 正往(いなば まさみち・稲葉 正通)は江戸時代の大名、老中。相模国小田原藩3代藩主、越後国高田藩主、下総国佐倉藩初代藩主。正成系稲葉家宗家4代。
稲葉正則の長男。父・正則は大老酒井忠清に連なる側近で長らく老中として現職だった。正往自身も、家督相続以前から奏者番兼寺社奉行、京都所司代と、幕職についていた。
延宝8年(1680年)、徳川家綱が危篤に陥った時、忠清は有栖川宮幸仁親王を5代将軍に擁し、正則もこれに歩調を合わせたが失敗したため、綱吉が5代将軍につくと間もなく隠居を余儀なくされ、正往が44歳にして正式に家督を相続した。この事件の余波で、まもなく江戸に近い小田原から越後高田に転封を命じられ、所司代も免職された。
15年後、江戸城大留守居役をへて、老中として幕政に返り咲き、また、領地も下総佐倉に移された。赤穂浪士による吉良邸討ち入りの当日、たまたま月番老中であった正往は、柳沢吉保が登城する前に事後処理を速やかに開始し、浪士たちが即刻処分がされることのないように配慮するなど、したたかなところも見せている。
老職のかたわら石州流茶道を嗜んだ。宝永4年(1707年)隠居し、家督を次男の正知に譲る。
吉宗政権時には、酒井忠挙、小笠原長重と共に先代の遺老、学識豊かな人物として老中なみの待遇を受け、江戸城にもしばしば召し出されている。
享保元年(1716年)に死去した。
[編集] 年譜
- 1640年(寛永17年) 生まれ
- 1681年(天和元年) 奏者番兼寺社奉行(4月9日)、京都所司代(11月15日)
- 1683年(天和3年) 家督相続・10万2000石
- 1685年(貞享2年) 京都所司代を免職・高田に国替(12月11日)
- 1700年(元禄13年) 大留守居役
- 1701年(元禄14年) 老中(1月11日)、佐倉に国替(6月)
- 1707年(宝永4年) 老中辞任(8月2日)、隠居
- 1716年(享保元年) 死去(享年77)
[編集] 官位位階
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