浜松まつり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
浜松まつり(はままつまつり)は、静岡県浜松市で毎年ゴールデンウィーク期間中の5月3日から5月5日までの3日間に端午の節句にちなんで開催される凧揚げ合戦と、同時に市内各地で行われる恒例行事の総称。
目次 |
[編集] 概要
- 凧揚げ合戦は町単位で参加し、それぞれ固有の町紋(凧印)が描かれた大凧を揚げ、町同士で凧糸を切り合って競う。
- 大凧は、主に初節句を迎えた家庭から一面ずつ提供される。それぞれの凧には、提供者の家紋とその家で初節供の祝いを迎えた子供の名前が隅に描かれる。この凧は「初凧」と呼ばれる。翌年以降は、家紋と名前を外して使われることが多い。
- 夜には御殿屋台の引き回しと初練りが行われる。
[編集] 起源・歴史
これまでその起源は、室町時代の永禄年間(1555年 - 1569年)に、引間城(現在の浜松城)の城主であった、飯尾豊前守の長男・義廣公の誕生を祝って、入野村の住人であった佐橋甚五郎が義廣公の名前を記した大凧を揚げた、という史書『浜松城記』の記述を定説としていたが、近年になってこの縁起そのものが大正時代の創作であることがわかっている。
現浜松市の市域において、端午の節句に凧を揚げることに関する最古の資料は、有玉下村(現浜松市有玉台)在住の国学者・高林方朗(みちあきら)の日記で、寛政元年(1789年)4月に初凧を購入したという記述が確認されている。
江戸時代の中期には、端午の節句に祝凧を贈って揚げるという風習は浜松だけでなく遠州地方全域で行われており、嫁の里から凧が贈られ、贈られた家では、糸や用具を整え、それを近所の若者が揚げた[1]。
明治に入り庶民の娯楽が多様化すると、初凧の習俗は「古くさいもの」として次第に行なわれなくなってしまうが、浜松の城下町では初凧に糸切合戦の要素が加わりそれが人々を熱狂させ今日まで続くに至る。 明治7年頃、浜松の職人町に消防組が組織されると各町の若者同士の対抗意識が高まって町同士による凧合戦が行われるようになった。消防組単位で凧合戦に参加していたことを直接確かめる資料は見つかっていないが、消防組の影響は参加各町を組で表すことや、古くから参加している町の凧印には纏を図案化したものがあることからも伺える。
「浜松駅紙鳶あげの馬鹿騒ぎは毎度記るせしが昨今は実に甚だしく去る廿四五日の頃よりは各町毎に隊伍を組み夫々の屯所には消防に用いる旗を立てて(中略)合図は太鼓喇叭で進退し田面麦畑のきらいなく奔走し、又各町人の見易き為会印に換る手拭を以ってし肴町は晒し、連尺は豆絞り、伝馬連は芥子玉と思ひ思ひに色分けし寺島、稲葉のごときさしもに広き畑中も狭しとする程群集し、恰も戦争に異ならず」--函右日報 明治16年4月28日の記事より
とあり、この記事からも消防組と凧合戦の関係がわかる。また、この記事には「太鼓喇叭で進退し」とあり、既にこの頃からラッパが凧合戦合図の為に使われていたことがわかる。現在でもこのラッパの始まりを、大正初期に和地山練兵場で開催された際に見物していた兵士によって吹かれたことから、と紹介されることがあるが誤りである。
この頃数組以上が集まって凧合戦が行われていた場所として田町の大安寺・法雲寺、北寺島町の機関庫建設予定地、新川端から馬込川端、伊場の鉄道工場建設予定地などがあったが大正7年からは和地山の練兵場に一本化されて行われた。第二次世界大戦による一時中断の後、昭和23年に会場を一時的に中田島に移し、浜松市連合凧揚会主催で第1回の凧揚げ合戦が、50か町余の参加を得て開催された。
戦後の再開頃から行政が主導するようになると、浜松市の観光イベントとして急激に拡大路線へ転換した。昭和45年に自主的な管理組織であった連合青年団統監部が解散させられると、浜松市・観光協会・商工会議所・自治会連合会からなる浜松まつり本部が新たに組織され、観光路線にさらに拍車がかかることになった。長い間、市内中心部の五十町余のみによって行われていた祭りだったが、昭和50年に行政の後押しにより卸本町が途中参加すると、以降毎年のように参加町が増え、わずか30年の間に112町も参加町が増加した。これにより参加者が激増し、全国で5指の人出数を誇る祭りとなったが、急激な肥大化により参加町の3分の2以上が途中参加という現実は、浜松の凧そのもののありようを大きく変化させるに至っている。
[編集] 大凧
浜松まつりで使用する凧の大きさは、2帖から10帖までで、4帖から6帖が最も凧合戦に適しているといわれる。1帖は美濃判(9寸×1尺3寸=273mm×393mm)12枚で1.28m2であるため、4帖は48枚で2.4m四方、6帖では72枚で2.9m四方。8帖になると96枚貼りでおよそ3.25メートル四方となる。形は正方形で骨組みは細かく丈夫に作られ、中心から大きく尾骨が突き出ており、他地方の凧と比べると頑丈で重い。これらの特徴は、凧を揚げることよりも揚がった後の糸切り合戦に重きを置いていることによる。但し、近年揚げることのみを目的として軽量化された凧が揚げられることがある。
凧に描かれる印は各町によって異なり、町名の頭文字や町内の伝説に由来する絵柄などがある。
[編集] 初練り・激練り
夜になると、初凧を揚げた家からその労をねぎらって町の若衆に振る舞い酒が出される。この時、規則正しく整列をして掛け声に合わせて摺り足で練り歩き、また、施主や初子のまわりでもみくちゃになるように荒々しく練りを潰していく。また商店や会社、祭りの役員宅などで行うこともある。
メディア等で「激練り」という言葉が使われるが、市中心部を中心に、古くから参加している町ではこの表現はあまり使われていない。
[編集] 御殿屋台
御殿屋台(ごてんやたい)とは、豪華な彫刻や幕などで装飾された祭車・山車のことで、浜松では御殿屋台または単に屋台と呼ぶ。その昔、凧揚げから帰る若衆を迎えるために、底抜け屋台を造って練り歩いたのが始まりとも言われている。それぞれに趣向をこらした見事な彫刻や提灯の飾りつけが施され、内では女の子達を中心に三味線や笛を用いたお囃子(おはやし)が奏でられる。浜松まつりの屋台で奏でられる囃子は「小鍛冶」「鞍馬」などの黒御簾や「梅は咲いたか」などの小唄が多いが、一般的な山車と異なって、浜松の屋台が芸者の乗る「花屋台」として発展してきたためで、現在でも三味線や篠笛は芸者や稽古場の師匠などの音曲の専門家に任せる町が多い。
御殿屋台は市中心部および各町内で引き回される。
2005年の市中心部の引き回しには78町が参加した。
[編集] 問題点
[編集] 肥大化の弊害とまつりの変容
かつて「日本一の凧合戦」と謳われた浜松の凧であるが、今日では伝統的な凧糸の切り合いの技が見られないようになっている。今でも公式サイトやパンフレットには「チョン掛け」「釣り上げ」といった技の解説が掲載されているが、今日においてそれらの技を見ることはない。これは祭りの参加町数が過去30年の間に3倍近くまで膨張し、技術そのものを持っていない町が増えたことに加え、会場である中田島海浜公園(通称「凧場(たこば)」)が手狭になってきていることなどによる。
肥大化による弊害は夜の屋台引き回し・初練りでも顕著で、近年浜松まつりの屋台ではない秋季に市内各地で行われる収穫祭の太鼓屋台を引き回す町や、遠方から夜間輸送をしてまで中央に屋台を持ってくるような町が現れたことで、古くから参加している市中心部の町が場所・時間の制約を受け、本来有るべき姿の屋台引き回しが出来ない状況にあり、さらに後の初練りの運行にも支障をきたしている。元来凧と屋台と初練りが浜松まつりの根本であったにもかかわらず、それらの祭の趣旨から外れたイベントが増え、祭り本来の姿が崩れ始めている。郊外の町の練り隊がバスで市中心部の繁華街に入って5ー10町ずつ交代で練り歩く「合同練り」(揶揄して鍛冶町大行列とも言われる)や、2008年には日伯友好という理由でサンバパレードが執り行われるなど、まつりの本筋とはまったく関係のない行事も増え、まつりの継承者であるはずの子供でさえ「浜松まつり」が何のまつりであるかを知らないという状況になっている。
これらの問題から、古くから参加する町は戦後参加した町を新参町などと呼び、一方的に疎外する風潮が見受けられる。
[編集] 浜松まつりに参加している町
[編集] 昭和30年以前からの参加町(旧町)
相生町 浅田町 池町 板屋町 海老塚町 追分町 尾張町 鍛冶町 亀山町 鴨江町 北田町 北寺島町 木戸町 元目町 紺屋町 栄町 肴町 佐藤中町 佐藤西南 塩町 下池川町 新町 助信町 砂山町 住吉町 田町 大工町 高町 高林町 千歳町 寺島町 天神町 伝馬町 常盤町 富吉町 中沢町 中島町市場 中島町諏訪 中山町 名残町 平田町 成子町 西上池川町 西菅原町 野口町 旅籠町 八幡町 早馬町 東伊場 東上池川町 東菅原町 東田町 広沢町 船越町 馬込町 松江町 松城町 三組町 向宿町 元魚町 元城町 元浜町 森田町 山下町 竜禅寺町 連尺町 和地山町
[編集] 新参加町
- 昭和50年 卸本町
- 昭和51年 入野地区 砂丘町
- 昭和53年 領家町
- 昭和55年 蜆塚町
- 昭和56年 布橋北
- 昭和57年 三島町
- 昭和58年 中島町本町 西伊場町 山手町 神田町 早出町
- 昭和59年 名塚町 布橋南 倉松町 下石田町 曳馬町本郷
- 昭和60年 茄子町 頭陀寺町 和合町 富塚町 本郷町東 鴨江町北 曳馬町阿弥陀 葵東 芳川町大橋
- 昭和61年 泉 幸 上新屋町 佐鳴台 十軒町 上島町 葵西 小豆餅 新津町 和田町 三和町 安松町 萩丘
- 昭和62年 曳馬町三浦 白羽町 恩地町 瓜内町 文丘町 金折町 南栄 高丘町 初生町北
- 昭和63年 和合町西和 利町 中田島町 佐鳴台一丁目 渡瀬町 参野町 曳馬町金屋
- 平成元年 飯田町 曳馬町宮 西伝寺町
- 平成2年 下飯田町 安間町 植松町 本郷町 西山町 遠州浜 三方原町 西島町 天王町 湖東町
- 平成3年 寺脇町 芳川町神出 楊子町 有玉西南北町
- 平成4年 上西町 小池町 小沢渡町 篠原地区 立野町 富塚町北 富塚町西 中田町 三方原南
- 平成5年 丸塚町 子安町 市野町
- 平成6年 天竜川町 初生町 細島町
- 平成7年 大蒲町 西ヶ崎町 都盛町
- 平成8年 原島町 四本松町 半田団地
- 平成9年 江之島町 薬師町 若林町
- 平成10年 新橋町
- 平成11年 上石田町 百里園
- 平成13年 大山町
- 平成14年 米津町
- 平成18年 篠ヶ瀬町
- 平成19年 神立町 若林町北
[編集] 交通手段
- 祭り当日は凧揚げ会場周辺は交通規制がされ、凧揚げ会場周辺(昼間)、中心街(夜間)はマイカー乗り入れができない。
- 凧場(たこ揚げ会場)へは浜松駅から会場(中田島砂丘)までは遠州鉄道のシャトルバスたこ直や路線バスが運行されている。車の場合は、飯田公園駐車場からもたこ直が運行されている。
- バス以外の交通手段としては、タクシーが凧揚げ会場前まで乗り入れができる。凧揚げ会場には臨時のタクシー乗り場も設置される。
- 夜の練りや屋台の引き回しへの参加・見学のために中心街に入るには、遠鉄電車遠州病院駅か第一通り駅から徒歩、もしくは遠鉄バスで県総合庁舎や浜松駅等を利用する。バス停は、市役所前、伝馬町、かじ町、田町中央通りが近いが迂回運転のため停車せず、前述の駅かバス停から徒歩で行くしかない。
- 夜間の中心街交通規制に関しては、タクシーも乗り入れることはできない。
[編集] 脚注
- ^ SBSテレビ夕刊. "映像詩 静岡の祭り「遠州横須賀凧上げまつり」=2月6日放送" 2008年4月1日閲覧.
[編集] 参考文献
- 『浜松市史』(浜松市役所)
- 『浜松凧揚祭史』(中村善太)
- 『浜松凧の生みの親 椿姫観音 浜松の凧・屋台』(1983年,山崎源一)
- 『浜松まつり』(1996年,浜松市観光コンベンション課)
- 『検証・浜松凧揚げの起源と歴史』(2001年,小楠和正)
- 『日本のかたち 東海道 真ん真ん中 浜松まつり』(2004年,山田有一)