浅原健三
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浅原健三(あさはら けんぞう、1897年(明治30年) - 1967年)は、昭和時代の日本の政治家。
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[編集] 生涯
[編集] 社会主義運動家として
福岡の小さな炭鉱主の家に生まれるが、父の経営失敗により、炭鉱倒産後はクズ石炭・クズ鉄拾いなどをして生活を送った。
1919年、日本労友会を設立し、翌1920年、八幡製鉄所の大労働争議を指導。争議自体は成功に終わったが、浅原自身は治安警察法違反で逮捕された。その後下獄すると、東京で新聞の印刷工をしながら、日本大学の夜学に通い学んだ。このころ、無政府主義者の大杉栄と出会い、彼に私淑。以後、「大杉栄の弟子」を自称するようになる。このころ、以後、満州問題でも長い付き合いとなる古市春彦を自宅に住まわせている。
1925年には九州民憲党を結成し、翌年の第一回普通選挙に出馬、当選する。
[編集] 石原莞爾の側近に
戦争期に入ると、「満州からの即時撤退」を選挙で叫んだ。政友会幹事長の森恪から、「日中問題を解決するには軍に近づく必要がある」と説かれ、軍人との人脈作りにはげむ。陸軍大臣だった林銑十郎の使者として、当時仙台で連隊長の任に会った石原莞爾と出会うと、石原と共鳴し、付き合いを深めている。以後浅原は石原の政務秘書の様な役を演じ、宇垣内閣の阻止、林内閣の成立などの際、裏で動いていくことになる。
石原が失脚して舞鶴要塞の司令官に追いやられると、浅原は治安維持法容疑で逮捕される(世にいう浅原事件)。これは、石原一派の粛清を目指す東條英機派の意思によるものといわれている。浅原を「アカ」とみなしていた東條が、軍に潜入して軍を赤化させる恐れがあると断じたのである。 しかし、浅原を起訴することは、石原を疑うことになり、石原を疑うことは、当時陸軍大臣であった板垣征四郎の顔に泥を塗る行為でもあった。このような理由から浅原は起訴を免れるが、同時に超法規的措置として、国外追放となる。
その後、上海に居を構え、そこで巨万の富を成す。1944年には東條英機暗殺未遂事件への関与が疑われ、憲兵隊に逮捕される。しかし、またも釈放され、今度は那須の山奥で蟄居させられる。
[編集] 戦後
戦争が終わると、実家に戻り、浅原を訪問した石原と一度だけ会っている。その後は世に出ることを極度に嫌ったが、岸信介や鳩山一郎との人脈があったことから、さまざまな局面で、政界の黒幕として暗躍した。
1967年、70歳で没した。
[編集] 文献
- 『反逆の獅子』
- 桐山桂一による唯一の評伝。
- 『溶鉱炉の火は消えたり』
- 労働争議に関する、浅原が書いたノンフィクション。劣悪な条件下で働いていた工場労働者たちを大いに鼓舞した。