法帖
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法帖(ほうじょう)とは、書道において紙に筆と墨で書かれた書蹟のうち、保存・鑑賞・学書用に供するために仕立てられたもののこと。ほとんどの場合中国の書蹟に用いられる語である。
多くは本人が制作したものではなく、後から他の人物が紙をつなぎ合わせるなどの加工を行ったり、模写・複製などを行って制作したものである。また俗にはある程度の分量を持った近世以前の書蹟をこう称することもある。
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[編集] 概要
我々が書道を学ぶ際、印刷物を介して先人の書蹟に触れることがある。特に書蹟を写す「臨書」では、このような書蹟の存在は必須である。また、過去の書家たちも多くこのような先達の書蹟を蒐集・鑑賞したり、参考にしたりすることによってその腕を磨き、自分の世界を確立して行ったのである。
しかし日本の書蹟が多くの場合、最初から観賞や作品・文献模写のためにものされていて、その制作目的が学書と比較的近いところにあるのに対し、中国の書蹟、特に唐より前の多くの書蹟は、そもそも書道の作品ではなく別の用途をもって書かれたもので、学書からは程遠いところにあった。例えば「書聖」として知られる王羲之の代表作「蘭亭序」は詩集の序文であったし、「十七帖」は尺牘(せきとく)=手紙である。また王とともに中国書道の二代潮流をなした顔真卿の「祭姪文稿」は追悼文、「祭伯文稿」は報告文、「争坐位文稿」は上奏文のそれぞれ草稿である。
また作品として制作されたものであっても、作品全体の大きさがはなはだ大きかったりするなど体裁が学書に向かないことが多い。このような書蹟を学書に用いるには、手元で使えるように書蹟を作り直さなければいけない。
それ以前に本物の書蹟はたった1つしか存在しないため、そのままでは多くの人の学書に供することも出来ない。このため、書蹟を複写して適宜大きさなどを調整し、学書や鑑賞に使いやすくすることが行われた。このようにして制作された書蹟を「法帖」と呼ぶ。
[編集] 手法による分類
以下、手法による法帖の分類を述べる。多く「~本」と呼ばれることが多い。
- 真蹟
- 本物の書蹟。ただし本物であっても手が加えられていないものは非常に少なく、多くの場合後世の誰かの手によって裏打ちが行われたり、巻子から折帖などへと装丁が変更されたりしていることが多い。法帖の中では極めて少なく貴重である。
- 模書
- 真蹟の上に紙を敷き、直接なぞり書きしたもの。一番原始的な方法であるが、法帖を作るためというよりも学書のために用いられる方が多かったと見られている。
- 臨模
- 真蹟を横において臨書し模写したもの。「文字の形」を重要視する書道にあっては、真蹟をものした人物に匹敵する手腕が要求されるため、この制作法による法帖は数があまりない。
- 搨模(とうも)
- 真蹟に紙をかぶせる点は模書と一緒であるが、文字を直接なぞるのではなく、輪郭のみを写し取って後からその中を黒く塗るという「双鉤填墨」の方法で模写したもの。あまり高等な技術を必要とせず、極めれば真蹟そっくりの模写を行うことも可能。六朝時代に開発され、北宋代に入る直前まで広く用いられた。
- 模刻
- 石に書蹟を転写し、彫りつけて拓本を採るという手法を用いて制作された法帖。現代風に言えば媒体変換を経ての模写である。上4つと違い、拓本であるため白黒が逆転する。北宋代以降多用され、清代に乱用の弊害に対する批判の噴出と印刷術の発達により衰退するまで、法帖制作の主流であった。
[編集] 形態による分類
以下、形態による法帖の分類を述べる。このような形態別の分類が出来たのは、模刻発生以降のことであり、以下の説明も模刻を前提に述べる。
- 単帖
- 1人の書家の、1つの書蹟を模刻したもの。有名な書蹟の場合、複数の単帖が存在することも少なくない。
- 専帖
- 1人の書家の作品を集めて模刻したもの。個人作品集である。王羲之の「十七帖」をはじめとする尺牘集などがこれにあたる。
- 集帖
- 複数の書家の作品を集めて模刻したもの。現代風に言えばアンソロジーである。北宋代の『淳化閣帖』をはしりとして多く制作されたが、真偽が疑わしい法帖が紛れ込むことが多く注意が必要である。
[編集] 歴史
模刻も参照のこと
[編集] 六朝から唐代
「法帖」と呼ぶことの出来るものの原形は、既に六朝時代に出来上がっていたと見られている。
この時代、「二王」として讃えられる東晋の王羲之・王献之親子が登場し、隷書の走り書きである行書とそれを整えただけの楷書を芸術的に完成させ、大きな変革を書道界へもたらした。そして「書聖」とまで呼ばれた彼らは一躍時代の寵児となり、多くの書家たちがその書法を学び、二人に近づくことを理想とした。
そのような中で生まれたのが、法帖作りであった。当初は模書や臨模などの正攻法であったが、あまりに技術を必要とするために搨模が編み出された。普通の人でもやり方さえきっちり学べば比較的気軽に行うことが可能で、極めれば真蹟に迫る模写が出来るとあって、これにより多くの法帖が作られた。
だが、搨模もいちいち手書きで写していることには変わりはなかったため、もっと効率のよい方法が新たに求められることになる。
[編集] 北宋から明代
そこで登場したのが模刻である。模刻は五代十国の文化王朝として名高い南唐で開発された手法で、この手法を用いて集帖『澄清堂帖』を作ったといわれる。これがそのまま南唐を征服した北宋へ受け継がれた。
北宋代は書道の書蹟を蒐集・鑑定することが流行り、書に関する研究も盛んに行われた時代であった。朝廷においても皇帝の太祖や太宗が書の蒐集を極めて好み、ついに大々的に模刻を用いて淳化3(992)年、王羲之を中心とする集帖『淳化閣帖』全10巻を編纂するに至った。
この『淳化閣帖』のもたらした影響は大きかった。まず模刻が法帖制作の主流となり、法帖を作る場合には模刻を用いることが一般的となった。また未曾有の集帖ブームとなり、北宋代の有名なものだけで9つ制作され、明代にはその数12本にまで膨れ上がった。この時代には『淳化閣帖』自体の模刻まで行われたほどである。
かくして模刻による法帖の制作が花ざかりとなり、これによって書蹟の享受と学習、そして伝承が行われたのである。
[編集] 清代以降
清代においても法帖制作は順調に続くかに思われたが、思わぬところから異議が出た。乾隆帝の時代に発生した考証学である。
その大きな要因となったのが「模刻」という手法の持つ欠点である。模刻は石や木に文字を転写し彫るわけであるが、この際に模写する人間と彫る人間という2人の人間を介する。このため出来にばらつきが生じるし、間に人が入ること自体が途中で誤りを生む要因にもなる。
そして法帖の大量生産が行われたことも、模刻の欠点を露呈した。石や木は確かに紙よりは強いが、永久になくならないわけではないし、また拓本がいくら採れるといっても原本はそこにしかない。このために模刻の拓本からさらに模刻を作るという連鎖が起こり、模刻と法帖の乱造が発生してしまった。その結果、写本と同様に誤りが累々と重なっていったのである。またこのような乱造体制は、無批判に法帖を引き写すことにもつながり、偽物をはびこらせる原因ともなった。
ここに考証学が噛みついたのである。考証学の基本姿勢は「実証的にものごとを分析すること」であり、このようないい加減な伝写過程は到底容認できるものではなかった。その結果、考証学者と書家は「模刻を何度も経ている法帖は信用がならない」という結論に達することになった。そして当時続々と出土していた北碑、紙が発明される以前の篆書や隷書の碑の方が「ある程度までそのままの姿を留めていて信頼出来る」とされるようになって行く。
特に阮元は、南北朝時代に北朝で彫られた碑である北碑と南朝の法帖・南帖を比較して「北碑南帖論」を著し、先述の論理から北碑を南帖よりも優れたものとして断じ、包世臣など多くの学者がこれに賛同した。かくして清代の書道界の主流は一斉に碑へ流れ、法帖は一時的にその立場を失くす結果となった。
その後も法帖は細々と作られ続けたが、考証学の勢いと印刷術の発達に負け、自然消滅の状態で終焉を迎えることになった。
現在では書蹟集を作る場合は、書蹟を写真撮影もしくはスキャニングするなどして画像にし、印刷に起こすのが普通であり、歴史的な「法帖」は消滅している。
[編集] 碑との関係
本来「法帖」は紙に筆と墨で書かれた書蹟を模写したものを指し、碑は「碑版」、その拓本を法帖仕立てにしたものは「碑帖」と呼ばれて明確に区別されていた。
しかし元の書蹟が碑であるだけで、実際に使用される際の媒体や制作過程が法帖と一緒であるため、現在では「法帖」と同列視され、「法帖」の中に含めたり、両者を並列して「碑版法帖」と呼ぶことがある。なお、略して「碑帖」ともいうこともあり、法帖仕立ての拓本を指す「碑帖」と同語となってしまうので注意が必要である。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 飯島春敬編『書道辞典』(東京堂出版刊)
- 神田喜一郎・田中親美編『書道全集』第24巻(平凡社刊)