沖縄の奄美差別
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沖縄の奄美差別(おきなわのあまみさべつ)とは、16世紀の琉球王国の奄美侵略から20世紀のアメリカ合衆国による沖縄統治で行われた沖縄による奄美諸島への差別について解説する。
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[編集] 背景
奄美人は琉球民族と源を同じくするが、千年余りにわたって独自の歴史、文化、言葉を有してきた固有の先住民である。 琉球人と奄美人の交流は、7世紀頃にはすでにあったと考えられているが、13世紀、沖縄本島の今帰仁を中心に起こった地方勢力である北山国が、遠征により奄美諸島を北山の勢力圏に収めたとされる。だが奄美への直接統治は行われず、その後も多くの島が自治権を持ち、事実上の独立を保ち続けた。その後、沖縄本島は中山国によって統一される。その結果興った琉球王国は、16世紀末に奄美の冊封を打診。これを拒んだ島々に大軍を派遣し、これを征服した。伝説によるが、奄美大島において琉球軍の侵攻により、3つのグスクと4つの集落の住民が虐殺されたと言われる。琉球王国は奄美大島に按司を置き間接統治を行った。また宗教面でも聞得大君と頂点とする王国の宗教体系に組み込まれ、統制が強化された。
その約30年後、1609年の薩摩の琉球征服の結果、琉球王国は薩摩藩の属領とされ、奄美諸島は割譲されることになり、薩摩藩領となり、以後、植民地経済を強いられ、圧政を受けることとなった。琉球王国が為す術もなく奄美を薩摩に割譲したことが、奄美人に現在まで続く琉球人への不信感を育てる一因となったとされる。
[編集] アメリカ統治下における差別
戦後、アメリカは旧琉球王国領である沖縄県および鹿児島県奄美群島を日本より割譲し、軍政下に置いた。このため沖縄と奄美の経済は癒着し、経済活動の中心地である沖縄本島に奄美人が移住するということが多く行われるようになった。しかし、奄美群島は沖縄県より早く1952年から53年にかけて日本に復帰し、それ以後、沖縄が本土返還される1972年までの約20年間にわたり、沖縄に移住していた奄美人は在外人「在沖奄美人」とされて、様々な社会的差別をうけることとなった。
琉球政府が行った差別的政策は以下の通りである。
- 奄美人に対する公職追放
- 奄美人に対する厳しい債務取立
- 奄美人に対する公民権剥奪
- 「琉球人」への転籍に対し厳しい条件を課す
- 引揚時に所持金制限(最高7200円)を課す
- 公的融資からの締め出し
- 土地所有権の剥奪
- 政府税の外国人優遇制度を認めない(奄美人以外の日本国民には認められた)
この政策により、奄美出身者であった当時の琉球銀行総裁が辞職に追い込まれている。 一般の沖縄人の中でも「奄美出身者は奄美に帰れ」との声が急速に広まり、公職以外の職場からも追放されるなどした。
沖縄返還により、以上の奄美人に対する制度的差別は撤廃された。
[編集] 現在
社会的な奄美差別はほぼ存在しないとされる。 また、琉球独立運動論者の中には、旧琉球領である奄美も一緒になって独立しようという意見があるが、同調する奄美人は多くはない。