池田長常
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池田 長常(いけだ ながつね、1609年(慶長14年) - 1641年10月10日(寛永18年9月6日))は、備中松山藩の第2代藩主。父は初代藩主・池田長幸(長常は長男)。母は森忠政の娘。正室は堀直寄の娘。子に娘(分部嘉治室)、娘(溝口政良室)、娘(溝口善勝室)。官位は従五位下、出雲守。
藩主になる前から第3代将軍・徳川家光に兜を受領するなど、寵愛を受けていた。寛永9年(1632年)の父の死去により家督を継ぐ。翌年、松江藩の堀尾忠晴が嗣子無くして死去して堀尾氏が改易となったとき、松江城を守備した。長男が早くに死去して娘しかいなかったため、死に臨んで娘を末期養子として家督を継がせようとしたが、長常が9月6日に死去した後、幕府から末期養子を許されなかったため、結局、備中松山における池田氏は断絶してしまった。享年33。法名は曹渓院殿久安禅昌大居士。
長常自身は武勇に優れ、勇猛な士を愛する人物だったと言われている。長常・長信の母の嘆願により、弟の池田長信は1000石の旗本となって井原に陣屋(井原陣屋)を持ち四か村を治めることを許され、池田家の家名はかろうじて存続した[1]。その10代目に幕末の遣欧使節団を率いた井原領主で外国奉行の池田長発(いけだながおき)がいる。
[編集] 脚注
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