末期養子
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末期養子(まつごようし)とは、江戸時代、武家の当主で嗣子のない者が事故・急病などで死に瀕した場合に、家の断絶を防ぐために緊急に縁組された養子。当主が既に死亡しているにもかかわらず、周囲のものがそれを隠して当主の名において養子縁組を行うこともあり、これも末期養子という。ただし、これは一種の緊急避難の措置であり、危篤状態にあった当主が奇跡的に回復した場合などには、当主がその縁組を取り消すことも可能であった。
[編集] 禁止と解禁の経緯
江戸時代初期には、大名の末期養子は幕府によって禁じられていた。武家の家督を継ぐためには、主家(大名にとっては徳川将軍家が主家ということになる)に事前に届出をして嫡子たることを認められる必要があり、末期養子はこの条件を満たすことができない。御目見以上の格の大名家においては、さらに将軍との謁見を済ませておくことも必要とされた。末期養子がこのように厳しく禁じられたのは、次のような事情による。
まず、末期養子においては当主の意思を確認する事が困難であった事による。家臣などが当主を暗殺して、自分の都合の良い当主に挿げ替えるなどの不法が行われる事態を危惧したものである。だが最も重要な理由として、幕府が大名の力を削ぎ統制を強めることに大いに意を用いていた事にある。末期養子の禁止もその手段のひとつとして活用されたのである。
支配体制のいまだ確立していない江戸時代初期には特に顕著で、幕府の成立から三代将軍徳川家光の治下にかけて、嗣子がないために取り潰される大名家が続出した。これは幕藩体制を確立するために大いに役立った。しかしその反面、それらの大名家に仕えていた武士たちは浪人となる他なく、社会不安も増すことになった。
それが極致に達したのが、慶安4年(1651年)に起きた慶安の変、いわゆる由井正雪の乱である。浪人が徒党を組んで幕府転覆を図ったこの事件は、幕府の大名統制策が新たな不安定要因を生み出していたことをはっきりと示していた。また、これより前、寛永14年(1637年)から翌年にかけて起こった島原の乱においても、多くの浪人が一揆に加わったことが、その鎮定を困難にしたとされる。
このような事情と、幕府の支配体制が一応の完成を見たことから、慶安4年、幕府は末期養子の禁を解いた。とはいえ、末期養子の認可のためには、幕府から派遣された役人が直接当主の生存と養子縁組の意思を確かめる判元見届(はんもとみとどけ)という手続きが必要であり(ただし、のち当主生存の確認は儀式化する)、無制限に認められたわけではなかった。また、末期養子を取る当主の年齢は17歳以上50歳以下とされており、それ以外の年齢の当主は末期養子は認められていなかった。17歳未満の者が許可されるのは寛文3年(1663年)、50歳以上の者が許可されるのは天和3年(1683年)になってからであった。