水の江瀧子
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水の江 瀧子(みずのえ たきこ 1915年2月20日 - )は、日本の女優、映画プロデューサー。水之江瀧子、水ノ江瀧子とも。本名は三浦ウメであったが、後に水の江滝子に改名した。
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[編集] 略歴
1928年から1942年まで東京松竹楽劇部(のちの松竹少女歌劇団)に第1期生として入団。それまでの日本にはなかった断髪に男装姿が人気になり「男装の麗人」の異名をとる。
この頃より「ターキー」、「タアキイ」の愛称で親しまれ、日産自動車のキャンペーンガールに選ばれるなど、国民的な人気を得て1930年代の一世を風靡した。第二次世界大戦中は内外の兵士を慰問。1943年から劇団たんぽぽを主宰する。
1952年に、俳優の鶴田浩二が興した新生プロに所属。しかし、愛人であり、自身と鶴田のマネージャーでもあった兼松廉吉が1955年に自殺。鶴田浩二襲撃事件から2年後のことであった。
1955年から1970年にかけて日活の映画プロデューサーとなり、76本の映画を企画、制作。石原裕次郎らのスターを育てた。
テレビでは、NHK「ジェスチャー」、テレビ朝日「独占!女の60分」のメイン司会、フジテレビ「オールスター家族対抗歌合戦」の審査員などが知られる。
舞台・映画・テレビにわたる半世紀以上の芸能生活だったが、1985年に甥(実兄の子。但し実子説あり。)三浦和義がロス疑惑で世間に騒がれた[1]のを機に引退。本名を水の江滝子に改名する。1983年、松竹歌劇団のミュージカル「マイガール」のプロデュースが最後の芸能活動になった。
1993年、生前葬を華やかに行い、関係者を驚かせた。現在は、毎回楽しみにしていた松竹歌劇団OB会にも一切出席することなく、ほとんど隠居的な生活を送っていると報じられている。
私生活では独身を通している(戦時中に求婚者がいたが、その男性が戦死したためと伝えられる)。
[編集] 事件
1953年の有名な鶴田浩二襲撃事件では、水の江の目の前で暴力団山口組の4人が鶴田浩二を襲い、鶴田の頬をドスで斬るなどして11針を縫う大怪我を負わせた。
1954年、長崎の「夜のプリンス」と呼ばれた長井末広(下関の合田の盃を下ろされた舎弟分。長井組組長)の殺害現場に偶然居合わせている(「九州やくざ者」より)。
[編集] 出演作品
- 透明人間現わる(1949年、大映)
- サンダカン八番娼館 望郷(1974年、東宝、俳優座)
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 三浦和義については水の江の実子であるとの風評があり、和義自身も小学生時代はこの説を信じていたが、1985年には「水の江滝子の実子説というのはなんの根拠もありませんよ」とはっきり否定するようになっている。沢木耕太郎『馬車は走る』p.304(文春文庫、1989年)を参照。
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