毛利秀就
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毛利 秀就(もうり ひでなり、文禄4年10月18日(1595年11月19日) - 慶安4年1月5日(1651年2月24日))は、江戸時代の大名で、長州藩第2代藩主。父は毛利輝元、母は側室の児玉元良の娘。幼名は松寿丸。藤七郎。正室は結城秀康の女(徳川秀忠の養女・龍昌院)・喜佐姫。子に毛利綱広、松寿丸、土佐(松平光長室)、竹(鷹司房輔室)ほか。官位は従四位下長門守、侍従、右近衛権少将。
[編集] 経歴
文禄4年(1595年)10月18日、安芸広島で生まれる。輝元は長く実子に恵まれなかったため、従兄弟の毛利秀元を養嗣子に迎えて世子としていたが、秀就(初名は秀成とも)が生まれると、秀元には別家を立てさせている。慶長4年(1599年)、豊臣秀頼の近侍となり、秀頼を烏帽子親として元服。一字を拝領して秀就と名乗った。
関ヶ原の戦いで西軍が敗れると、父の輝元とともに長門・周防37万石に封じられ、父に代わって当主となった。しかし幼年のため、幕府からは輝元と共同での藩主と見なされていたようで、政務は秀元が行なった。慶長13年(1608年)家康の命によって結城秀康の娘を正室に迎え、越前松平家の一門となり、松平長門守を称した。
越前家は以後毛利家の後見的位置にあったが、かなりの緊張関係が存在したようで、元禄12年(1699年)には毛利元重の処遇をめぐって越前家と毛利家が衝突寸前になる事件が起こっている。
慶長20年(1615年)大坂の役では徳川方として参戦している。元和9年(1623年)から単独で藩主を務めるが、成人してもなお秀就を軽んじ、将軍の御伽衆であることをかさに着る秀元との間にしばしば深刻な確執を引き起こし、幕府の仲裁も受けている。慶安4年(1651年)正月5日、57歳で死去し、後を子の毛利綱広が継いだ。 法名は大照院殿月礀紹澄大居士。 墓所:山口県萩市椿青海の大照院。
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