武茂氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
下野宇都宮氏第7代の宇都宮景綱(下野守)の子で、第8代宇都宮貞綱(下野守)の弟の宇都宮泰宗(三河守、常陸介)にはじまる。
泰宗は、兄の貞綱が元寇の際、執権北条時宗の命を受け、蒙古討伐軍総大将として九州に下った時、同行し、筑後国山門郡瀬高の大木城を拠点としたため泰宗の嫡子の武茂時綱が嗣いだ。その後は武茂氏泰が継承したが、時綱の庶子の武茂泰藤は三河国の大久保氏の祖となったと伝えられるが徳川氏が新田氏の子孫というのと同じ類の仮冒とされる。
武茂氏は南北朝期は宇都宮宗家と対立したがやがて和解し、時綱のひ孫の宇都宮持綱は、下野の宇都宮氏本家第12代当主宇都宮満綱の婿養子となって家督を継承し、第13代当主となった。しかし、持綱が不慮の死を遂げ、その子である第14代当主宇都宮等綱が追放されると、持綱の実父である武茂綱家が宇都宮城を預かっている。その後、宇都宮持綱の娘と芳賀成高の子で持綱の外孫になる武茂正綱が絶家となっていた武茂氏を継承したが、のちにその正綱も、宇都宮等綱の子で第15代当主宇都宮明綱の死後に宇都宮氏の第16代当主となったため、正綱の子武茂兼綱が武茂氏を継承している。兼綱の子の武茂守綱の代には佐竹氏や那須氏と抗争を続けたが苦戦が続いた。その子の武茂豊綱の代には豊臣秀吉の関東平定後の検地により常陸国に国替えになり、関ヶ原の戦い後は佐竹氏とともに秋田に移り存続した。