梨本宮守正王
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梨本宮守正王(なしもとのみや もりまさおう、1874年(明治7年)3月9日 - 1951年(昭和26年)1月1日)は、皇族、軍人。1904年(明治37年)に大勲位菊花大綬章を授章している。
[編集] 生涯
久邇宮朝彦親王の第4王子として1874年に誕生。当初は多田と名付けられたが、梨本宮家相続にあたり、守正と改名した。梨本宮家は初代守脩親王のあと、山階宮家出身の菊麿王が後継者となったが、のちに実家を継ぐことになったため梨本宮家を離れ、代わって守正王が相続したものである。このため、実際には3代目であるが、公式には守正王が2代目とされている。
陸軍士官学校卒業後、1903年(明治36年)にフランス留学。これに先立つ、1900年(明治33年)に鍋島直大侯爵の二女伊都子と結婚。方子女王、規子女王の2女をもうける。日露戦争では、参謀本部勤務。次いで第3軍付き武官として出征した。戦後、再度フランスへ留学。フランス陸軍大学を卒業。陸軍大将に累進し、元帥の称号を賜った。軍事参議官、日仏協会総裁、在郷軍人会総裁などを歴任。1943年(昭和18年)、伊勢神宮祭主に就任した。
戦後、運命は暗転する。神宮祭主であったことから国家神道の頭目であるとみなされ、皇族としてただ1人A級戦犯として戦争犯罪人に指定され、巣鴨プリズンに拘置される。半年後に釈放されたが、宮邸に帰宅してみると、集団強盗に襲われ家財の多くが盗難に遭っていたという。1945年(昭和20年)、皇典講究所第6代総裁就任。1951年(昭和26年)78歳で逝去。
伊都子妃は、守正王亡き後も「最後の貴婦人」として振舞い、規子女王の二男広橋儀光、次いで久邇宮多嘉王の三男龍田(梨本)徳彦夫妻を養子に迎えた(梨本徳彦夫妻養子に先立ち、儀光とは離縁)。1976年(昭和51年)8月19日に94歳で逝去した。
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