板谷茂
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板谷茂(いたや しげる 1909年(明治42年)7月10日 - 1944年(昭和19年)7月24日)は、佐賀県出身の大日本帝国海軍軍人、海軍中佐。三養基中学を経て、1929年3月 海兵57期首席卒業。実弟の板谷隆一は海兵60期(恩賜)第二水雷戦隊参謀として菊水作戦に参加・生還しており、戦後、1969年7月~1971年6月の期間、統合幕僚会議議長を務めた。
[編集] 真珠湾攻撃
真珠湾攻撃作戦・第一次攻撃隊制空隊指揮官。戦闘開始直前に総指揮官・淵田美津雄中佐の発した信号弾を板谷少佐が見落とし反応しない為、淵田中佐は2発目の信号弾を発射した。事前に「信号弾1発は奇襲成功、信号弾2発は強襲」と決めてあった為、強襲と理解した急降下爆撃隊が即時攻撃を開始してしまった。一部では急降下爆撃が先行した為、雷撃隊の攻撃に悪影響があったとされるが、真偽の程は不明。
真珠湾攻撃ののち、乗艦赤城と共に転戦、ミッドウェー海戦にて赤城沈没後、51航戦参謀へ転出。昭和19年7月24日、アリューシャン列島千島方面にて戦死。九六式陸上攻撃機(若しくは九六式陸上輸送機)にて移動中、陸軍機の誤射により乗機が墜落しての戦死であった。本件に於いても、当時の陸・海軍の連携不足が容易に想像できる。