板倉重矩
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板倉 重矩(いたくら しげのり、元和3年10月24日(1617年11月22日) - 寛文13年5月29日(1673年7月13日))は、近世初期の大名・老中・京都所司代。三河国深溝藩主、三河中島藩主、下野国烏山藩主。重昌流板倉家第2代。
板倉重昌の長男。母は林吉定の娘。通称は主水佑(もんどのじょう)、後に内膳正(ないぜんのかみ)を称する。正室は小出吉親の娘。子に板倉重良(長男、廃嫡)、板倉重澄(次男)、板倉重種(三男)、娘(高木正盛正室)、娘(松平近陳継室)、娘(相馬貞胤正室)、娘(相良頼福正室)。養女に中院通茂室(小笠原政信の娘)、脇坂安村室(高木正盛の娘)がある。
島原の乱に際しては、上使となった父について島原に出陣した。寛永15年(1638年)1月1日に父が戦死し、その際の不手際を問われて同年12月まで謹慎処分に処される。その後、寛永16年(1639年)6月に家督を継承し、深溝藩主となる。その際、弟の板倉重直に5,000石を分与。間もなくして藩庁を深溝から中島へ移転。寛文5年(1665年)に老中となる。寛文8年(1668年)、京都所司代に転じるが、寛文10年(1670年)、再び老中職につく。寛文12年(1672年)閏6月3日に下野烏山藩へ移封。
寛文13年(1673年)5月29日、57歳で死去(9月21日に延宝と改元)。三男の重種が跡を継いだ。
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