板倉勝職
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
板倉 勝職(いたくら かつつね、享和3年7月1日(1803年8月17日) - 嘉永2年8月23日(1849年10月9日))は、備中松山藩の第6代藩主。第5代藩主・板倉勝晙の長男。正室は戸田氏庸の娘。継室は津軽寧親の娘、黒田直信の娘(本多正意の養女)。官位は従五位下、阿波守、周防守。
享和3年(1803年)7月1日生まれ。幼名は充之進。文化元年(1804年)、父が死去したために後を継いだ。しかし暗愚な人物で、藩政においては奢侈と淫らな行為を重ねて藩財政を悪化させた。男児がいずれも早世したため、松平定信の孫に当たる板倉勝静を天保13年(1842年)6月に養嗣子として迎え、嘉永2年(1849年)閏4月6日に勝静に家督を譲って隠居した。同年8月23日、47歳で死去。法号:寛隆院殿忠峰源義大居士。墓所:愛知県西尾市貝吹町の長円寺。
|
|
|