津軽寧親
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津軽 寧親(つがる やすちか、明和2年1月17日(1765年3月8日) - 天保4年6月14日(1833年7月30日))は、交代寄合黒石藩の第6代当主。陸奥国弘前藩の第9代藩主。父は津軽著高(寧親は長男)。母は黒田直純の娘。正室は杉浦正勝の娘・福姫。側室に伊東英保の娘・光円院、平沼養敬の娘・桂法院、糸屋小兵衛の娘・密乗院、板倉屋長兵衛の姉・春野、梅月堂の叔母・高瀬など多数いる。子に津軽典暁(長男)、津軽信順(次男)、娘(安藤信義正室のち板倉勝職継室、岩城隆喜継室)、娘(堀直央正室)、娘(森忠哲正室)ら。官位は従五位下、出羽守。のち従四位下、侍従、右京大夫
明和2年(1765年)正月17日生まれ。幼名は和三郎。安永7年(1778年)5月6日、4000石の黒石津軽氏の家督を継ぐ。寛政3年(1791年)、本家の藩主であった津軽信明が若死にしたため、その養嗣子として後を継いだ(黒石藩は長男・典暁が継承)。藩政においては信明の改革を受け継いで他藩から開拓者を求めて人寄役を設置し、寛政8年(1796年)には藩校・稽古館を創設する。寛政9年(1797年)には寛政律という法令を制定したが、信明には遠く及ばない人物で、信明時代に行なわれていた武士による半農農村復興政策は失敗に終わった。
文化2年(1805年)、蝦夷地の警備における功績により、幕府より高直しが行なわれて7万石、後に10万石の大名となった。文化6年(1809年)には支藩である黒石藩を立藩している。しかし相次ぐ改革と蝦夷地警備などにおいて出費が莫大なものとなり、それを賄うために領民に重税を強いたため、文化10年(1813年)に民次郎一揆が起こった。文政4年(1821年)には家格が盛岡藩より上昇したことを妬まれて、相馬大作事件と呼ばれる暗殺事件も発生している。このような中で失意に落ちた寧親は、文政8年(1825年)4月10日に家督を次男の信順に譲って隠居し、向陽館・広州と号した。
以後は俳句の世界に没頭して、如山・栖鶴・琴亭という俳号を残している。天保4年(1833年)6月14日、江戸で死去した。享年69。墓所:東京都台東区の津梁院。
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