松永貞市
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松永 貞市(まつなが さだいち、1892年(明治25年)4月25日 - 1965年(昭和40年)12月2日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍中将。佐賀県出身。
佐賀藩士の子で、筑前に移り住んだ松永久通(大和の戦国大名・松永久秀の嫡男)の子で、筑前博多にて質屋を開業し豪商となった松永彦兵衛(一丸)を祖とする。同門に佐賀藩士・千葉頼母組の組士375石拝領・鹿島住の松永宗伴、小笠原鹿島藩士(佐賀藩支藩)田中大炊組・鹿島住の松永所右衛門がいる。
[編集] 経歴
太平洋戦争初期、マレー沖海戦で英東洋艦隊を壊滅させた航空隊指揮官として名高い。戦争末期、硫黄島の海軍航空隊の指揮官に就任するが、病気を患い、米軍上陸前に本土に帰還した。因みに、後任で海軍兵学校同期で同郷の市丸利之助少将は硫黄島玉砕に伴い戦死している。
「思い出のネイビーブルー」や「先任将校」の著者で元海軍大尉の松永市郎は長子。松永市郎の子で、iモードの産みの親でバンダイ社外取締役の松永真理は孫。
なお、クリント・イーストウッド監督の大ヒット映画『硫黄島からの手紙』において、市丸少将の前任の海軍側の硫黄島守備隊司令官として登場する大杉海軍少将は松永中将をモデルとしているが、映画のように栗林忠道陸軍中将との確執があったとは伝えられていない。
[編集] 年譜
- 1913年(大正2年) 海軍兵学校を卒業(41期) 主な同期に木村昌福・草鹿龍之介・大田実・田中頼三・大森仙太郎・市丸利之助らがいる
- 1940年(昭和15年)11月 少将に昇進
- 1941年(昭和16年)1月 第22航空戦隊司令官に就任 同年12月太平洋戦争勃発
- 1941年(昭和16年)12月10日 イギリス東洋艦隊(Z部隊)を航空部隊で撃滅(マレー沖海戦)
- 1942年(昭和17年)5月 第12連合航空隊司令官に就任
- 1943年(昭和18年)9月 横須賀鎮守府参謀長に就任
- 1943年(昭和18年)11月 中将に昇進
- 1944年(昭和19年)3月 第27航空戦隊司令官に就任 硫黄島に赴任
- 1944年(昭和19年)8月 練習連合航空総隊兼第11連合航空隊司令官に就任
- 1945年(昭和20年)6月 第2海軍技術廠長に就任
- 1945年(昭和20年)8月15日 終戦