松平浅五郎
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 享保元年9月1日(1716年10月15日) | |||
死没 | 享保11年11月11日(1726年12月4日) | |||
別名 | 浅五郎(幼名) | |||
墓所 | 東京都港区虎ノ門の天徳寺 | |||
戒名 | 智円 | |||
藩 | 美作津山藩主 | |||
氏族 | 越前松平家 | |||
父母 | 父:松平宣富 母:園池実尚の娘(櫛笥隆賀の養女) |
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子 | なし |
松平 浅五郎(まつだいら あさごろう)は、江戸時代中期の大名。美作津山藩の第2代藩主。越前松平家宗家5代。
享保元年(1716年)9月1日、初代藩主・松平宣富の長男として生まれる。享保6年(1721年)、父・宣富の死去により家督を継いで藩主となるが、享保11年(1726年)11月11日に早世。享年11。
嗣子が無かったためお家断絶、藩は改易となるはずであったが、緊急措置として松平長熙(初代松平宣富の弟・松平知清の3男。浅五郎からは従兄弟)を後継ぎとすることで、幕府により藩の存続を許された。これはいわゆる末期養子であった為に、ペナルティとして藩の石高は10万石から5万石に半減された上、幕府における待遇、官位などにおいても以降冷遇されることとなった。4代後の松平斉孝はこの境遇に不満を持ち、幕府にかつての10万石への復帰を訴えた上、家格向上を実現させるために(自分に多くの実子がいたにも関わらず)、文化14年(1817年)に時の将軍・徳川家斉の十四男・銀之助(のちの松平斉民)を養嗣子として迎えた。これにより、津山藩は5万石を加増され昔の10万石に復帰し、官位などの面でも優遇されることになった。詳しくは斉孝・斉民それぞれの項目を参照して欲しい。
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