松平宣富
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松平 宣富(まつだいら のぶとみ)は江戸時代前・中期の大名。美作国津山藩の初代藩主。越前松平家宗家4代。
|
||||
生誕 | 1680年11月29日(延宝8年10月9日) | |||
死没 | 1721年3月4日(享保6年2月7日) | |||
別名 | 源之助(幼名)。矩栄(初名)。長矩(別名) | |||
墓所 | 津山市の泰安寺 | |||
官位 | 従四位下、越後守、左近衛権少将 | |||
氏族 | 越前松平氏 | |||
父母 | 父:松平直矩、養父:松平光長 | |||
兄弟 | 松平基知、松平宣富、松平知清 | |||
妻 | 正室:佐竹義処の娘 継室:園池実尚の娘(櫛笥隆賀の養女) |
|||
子 | 松平浅五郎(長男)、娘(蜂須賀宗員正室)、 娘(藤井松平信将継室)、娘(織田信朝正室)、 娘(園池房季室) |
延宝8年(1680年)10月9日、陸奥国白河藩主・松平直矩(越前松平家支流)の三男として生まれる。元服して父・直矩の偏諱を授与され矩栄と名乗る。
元禄6年(1694年)、矩栄は越後騒動で改易された松平光長の養嗣子となり、光長の偏諱授与され釆女長矩と改めた。そして元禄10年(1697年)に光長の隠居に伴ってその家督を継ぎ、さらには翌年に津山藩10万石に加増され国主として遇された。(のちに将軍徳川家宣の賜諱を受け宣富に再度改名した)。同年、年貢を高く設定したために農民一揆(高倉騒動)が発生する。この反省から、宣富は庄屋制度や大庄屋制度の改革による農村支配制の強化、財政改革を行なった。
享保6年(1721年)2月7日に死去。享年42。後を長男・浅五郎が継いだ。
|
|
|
|
|
|