松平忠告
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時代 | 江戸時代中期から後期 | |||
生誕 | 寛保2年(1742年) | |||
死没 | 文化2年12月10日(1806年1月29日) | |||
別名 | 戌千代、与一(幼名) | |||
戒名 | 享誉道長泰安院 | |||
官位 | 従五位下、大膳亮、遠江守 | |||
藩 | 摂津尼崎藩主 | |||
氏族 | 松平氏(桜井松平家) | |||
父母 | 父:松平忠名、母:宗義誠の娘 | |||
兄弟 | 加藤明堯、松平忠告、土井利厚 | |||
妻 | 正室:戸田光雄の娘・吉 側室:万木氏、田中氏 |
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子 | 松平忠宝(次男)、菅沼定賢(三男) 松平忠得(四男)、松平忠進(五男) 平岡頼暢(六男)、松平忠栄(九男) 娘(相馬祥胤正室) 娘(松平信彰正室のち米倉昌俊正室) 娘(加藤明允正室)、娘(本多忠升正室) 娘(土井利位正室) |
松平 忠告(まつだいら ただつぐ)は、江戸時代の人物。摂津尼崎藩の第3代藩主。尼崎藩桜井松平家6代。
寛保2年(1742年)(異説として寛保3年(1743年)5月26日)、第2代藩主・松平忠名の三男として生まれる。長兄は早世し、次兄の加藤明堯(後の近江水口藩主)は庶兄だったために他家に養子に出されたため世子に指名され、明和3年(1766年)12月の父の死去により、明和4年(1767年)2月20日に家督を継いで第3代藩主となる。
明和6年(1769年)、幕命により領地替えが行なわれたが、このときに藩財政の大きな利権となっていた地域を江戸幕府によって奪われ、代わって利権の少ない地域を与えられたために藩財政の悪化が始まった。また、江戸城桜田門番に任じられたことも少なからず負担となった。
このため、忠告は俳諧の道に進み、談林派七世谷素外に師事して俳名を亀文、または一桜井と号した。寛政11年(1799年)には大坂天満宮に談林派の祖西山宗因の句碑を建設している。また、「一桜井発句集」という句集を残している(この句集は子の忠宝によって文政5年(1822年)に完成する)。
文化2年(1805年)12月10日に死去。享年64。後を次男の忠宝が継いだ。
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