松原敬生
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松原 敬生(まつばら たかお、1944年8月5日 - )は、元東海ラジオ放送のアナウンサーで現在はフリーアナウンサー・会社役員。本名は松原敬夫(まつばらたかお)。
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[編集] 来歴・人物
愛知県名古屋市北区大曽根出身(生まれは東京)。名古屋市立六郷小学校、東海中学校・高等学校、同志社大学卒業。1968年入社。2004年8月に定年退職。株式会社東海パック(東海テレビ放送の関連会社)の代表取締役社長に就任するとともに、マネージメント会社としての個人事務所「トーク・オフィス・マツバラ」を立ち上げた。また、石原裕次郎に心酔し「東海の裕次郎」と自称している。演歌歌手として「哀愁のトラッカー」などの作品を発表し、番組出演・講演活動と合わせて公演を続けている。
[編集] 現在の出演番組
- ワクドキ!元気(三重テレビ)
- 松原敬生のシャレアップ歌謡曲(2006年10月7日~土曜日深夜3時~日曜早朝5時放送)
- ケーブルテレビ歌謡グランプリ決勝大会・司会担当-東海地方のケーブルテレビ9局にて放送される番組
- その他各種イベントの司会など
[編集] 過去の出演番組(いずれも東海ラジオ)
- ミッドナイト東海(1974年~1977年)
- モアミュージック1・2・3(1977年~1978年)
- ぶっつけワイド(1978年~1997年)
- 松原敬生のバラエティージャーナル(1997年~1998年)
- 松原敬生の夜はこれから(1998年)
- おはよう松原敬生です(1999年~2002年)
- 松原敬生の歌謡パーティー(2002年)
- さか松ゲン(2003年)
- ミッドナイト東海21(2005年)
- 松原・坂口の土曜はど〜よ!?(2004年~2007年)
- 東海ラジオの放送開始、終了アナウンスの読み上げも担当していた。(現在は源石和輝が担当。)
[編集] 演歌歌手としての活動
- 1979年、キャニオン・レコード「唸れ!! 快速球」のB面、「ひとえまぶた」(作詞:藤公之助、作曲:徳久広司、編曲:高田弘)でデビュー。その後下記の作品をリリース。
- 松原が管理職に付くとともに「会社からアナウンサーに専念するように言われた」(後日談)というように、歌手活動はごく限られた機会にしか行なわれなくなった。しかし、東海ラジオを退職後本格的に歌手活動を再開、2007年3月7日に再デビューCD「おまえとともに」(作詞:髙畠じゅん子、作曲:中川博之、編曲:前田俊明、日本クラウン)をリリースした。
[編集] CM(ナレーション)
- 東海ラジオのみのオンエア
- 再春館製薬所・痛散湯
- ソニー損保(単独での出演バージョンのほか、かつて担当していた番組で専属レポーターをしていた山浦ひさしとともに出演しているバージョンもある)
- ヤマダイ(同社の商品『ニュータッチ』のナレーションを担当)
- TV
[編集] その他
- アナウンサーを志した理由として、年の離れた実兄が中日新聞の記者であったことからマスコミに関心があったこと、小学生だったとき体育が決して得意でなかった松原が運動会で恥ずかしい思いをしないために放送部に入部して徐々に放送の世界に関心があったということを挙げている。
- アナウンサー生活の中で唯一心残りになっている事は、野球実況が出来なかったことという。3年間実況のトレーニングを積んだものの東海ラジオ ガッツナイターの実況を1度も務めることなく退社した。演歌歌手として成功することと共に、ガッツナイターの実況を担当することが夢だと今でも語る。
- かつて担当したぶっつけワイドではさまざまな思い出を残した。
- 蟹江篤子アナウンサーとのコンビの時代、当時松原、蟹江とゆく志賀高原のスキーツアーでトキワ館というホテルに泊まり、そこのホテルの部屋のガラスは割れてるし風呂はぬるい上、部屋のふとんに穴が開きまくっていて、ひどいホテルだったのにも関わらず、そこでもう一年同じ場所に泊まったという思い出を明かした。
- 夫人との間に2女がいるが、局での仕事等で家を空けることが多かったという。たまたま早く帰宅すると、遅くにしか帰ってこないと夫人に思われたのか、おかずの魚の開きが3人分しかなかったという。この逸話は「さかな3匹、家族は4人」として今でも語り草となっている。
- 50歳にして、タッチタイピングが出来るようになったと、源石和輝アナは言った。