松井秀喜5打席連続敬遠事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松井秀喜5打席連続敬遠事件(まついひできごだせきれんぞくけいえんじけん)とは、1992年8月16日の第74回全国高等学校野球選手権大会2回戦の明徳義塾(高知)対星稜(石川)戦において、明徳義塾は星稜の4番・松井秀喜の5打席全てを敬遠するという前代未聞の作戦を敢行、この試合で松井は一度もバットを振らせてもらえないまま星稜が敗退した事件である。
目次 |
[編集] 概要
明徳義塾の河野和洋投手(選手登録は外野手で背番号8)は、星稜の4番打者だった松井秀喜に対して、5打席とも全てストライクゾーンから大きく外れるボール球を投げ、敬遠をした(捕手が座った状態での四球だったため、公式記録では「故意四球」ではなく単なる「四球」となっている)。
松井が最初の打席である1回表からいきなり敬遠、その後も3回表、5回表と松井が打席に入る度に、明徳はことごとく勝負を避け続けている。既に3回表の打席から明徳の投手が1球投げるごとに歓声がどよめきに変わり始めていた。5回表の打席では完全にどよめきに変わっていた。3-2と明徳が1点リードの7回表、松井の第4打席では2死無走者でも敬遠、その後星稜の応援席からは「勝負しろ!」と連呼するブーイングが起こった。さらに9回表の最終打席(2死3塁)でも松井が敬遠された時には、星稜の3塁側応援席や外野席からも、メガホンや空き缶などの物が大量に投げ込まれた。さすがに試合は一時中断となり、星稜の控え選手たちが投げ込まれた物を片付けに走っている。その時、1塁ベース上にいた松井は、唖然とした表情でその光景を見つめていた。
異様な雰囲気に包まれる中、試合はそのまま3-2のスコアで、わずか1点差で明徳義塾が逃げ切って勝利。結果的に、松井への全打席敬遠の作戦が成功した格好となった。しかし、明徳ナインが校歌斉唱している間中、甲子園球場にいた観客の大ブーイングや、「帰れ」コールが大きく鳴り響き、明徳の校歌が殆ど聞こえなくなってしまった。校歌斉唱が終わってからも甲子園の観客は、勝った明徳ナイン達に対してはブーイングが鳴り止まなかったが、負けた星稜ナイン達に対しては心温かい沢山の拍手が送られた。
松井が敬遠された後の打者である月岩信成は5打席立ったが、3回表にスクイズによる1点以外の4打席は凡退に終わった。なお、9回最後の打席に立っていたのも月岩であった。松井の前打者だった山口哲治投手は、4打数3安打と当たっており、最終回は2死走者なしの場面から3塁打を放って、4番の松井につないだ。
[編集] 松井の五連続敬遠内訳
- 1回、2死3塁
- 3回、1死2、3塁
- 5回、1死1塁
- 7回、2死無走者
- 9回、2死3塁
[編集] 試合結果
チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | R |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
星 稜 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 |
明徳義塾 | 0 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | X | 3 |
審判:(球)田中、(塁)本郷、頼住、植村 観衆55000人
[編集] 試合後の当事者のコメント
試合後のインタビューでは、明徳義塾の馬淵史郎監督は「松井への全打席敬遠は私が指示した。生徒達には『オレが全て責任取るから心配するな』と伝えた。こちらも高知県代表として初戦で負けるわけにはいきませんから」「(星稜の練習を見て)高校生の中に一人だけプロの選手が混じっていた」とコメント。明徳の河野投手は「勝負したくない訳では無いが、チームの勝利の為には仕方なかった」、主将の筒井健一は「スタンドから物が投げ込まれた時に嫌な思いはしたが、あくまで監督の指示に従っての行動だった」と、それぞれ硬い表情のまま述べている。
一方、星稜の山下智茂監督は「私の野球人生の中で最も悔いの残る試合となりました。明徳には高校生らしく、正々堂々と勝負して欲しかった。松井があまりにも可哀想でならない」と涙ながらに語った。この試合全く勝負させてもらえなかった松井は、何を聞かれても「覚えていません」「分かりません」と自分の気持ちを言葉に出来なかったが、「勝負して欲しかった?」の問いにだけ松井は「ウン」と頷き、「勝負して欲しかったです」「しかし、敬遠は相手の作戦なので、僕は何も言えません」と言った。最後に全国のファンの皆さんに「ありがとうございました」とコメントを残した。松井の次打者だった月岩は「自分に力が無かった」、投手の山口は「先に点を取られたのが悪かった」と、それぞれ悔し涙を流していた。
そして、当時の日本高野連盟会長だった牧野直隆がこの敬遠騒動の試合に関して異例の記者会見を開いた。その席で牧野会長は「走者のいる時に作戦として敬遠するならともかく、何故ランナーがいない時にまで勝負しなかったのか?お互いこの日のために毎日苦しい練習を積んで来たのだから、その力を思い切りぶつけて欲しかっただけに大変遺憾。河野君も力のある投手なのだから、走者のいない場面では勝負してほしかった。勝とうとする気持ちだけが余りにも度が過ぎている」と明徳義塾に対して苦言を呈している。
[編集] 野球選手・関係者のコメント
- 星稜高校の先輩である元中日の小松辰雄は、この松井の5打席連続敬遠について「そんなの今まで見たこともない」とスポーツ紙でコメントしている(しかし、小松は1984年の阪神との最終直接対決2連戦において、本塁打王争い中の宇野勝と掛布雅之(共に37本塁打)に対する両投手陣の敬遠合戦(共に10打席連続四球、当時の日本記録)に投手として加担しており、このコメントの信憑性は低い[1]。)
- 明徳義塾と同じ四国の高校である徳島県立池田高等学校元監督の蔦文也は、「監督の考え方にもよるのでしょう。野球にはこういう事もありますね。ルール違反では無いのですから」とコメント。
- 当時西武に所属していた清原和博は「松井の他に良い打者がいなかったからでしょう。でも僕がPL学園高校時代に、ずっと僕に敬遠し続けても、多分勝っていたと思いますよ。桑田真澄を初め、素晴らしいバッターが沢山いたしね」と述べている。
- 王貞治は「松井がそれだけすごい打者だということでしょう。明徳としては何とか勝ちたいと思って取った作戦で、作戦勝ちといっていい。ファンにしてみれば、松井の打つところを見たかったのでしょうが、勝敗を争う両校にとってはしょうのないことです。」とコメント。
- バリー・ボンズは「プロであるならば作戦の一環として認められるかもしれないが、アマチュアの作戦としては馬鹿げている」と非難している。
- 青田昇と有本義明の二人は、レギュラー出演していたテレビ東京のスポーツ番組で「最高の作戦だった」と全面的に支持した。
- 漫画家の水島新司は、この事件が発生する前に、漫画「ドカベン」において、中二美夫によって超高校生級スラッガーの山田太郎が5打席連続敬遠される試合を描いているが、水島は「あの場面が実際起こるとは…高校野球ファンとしては見たくない光景だった。しかし、あの投手(明徳義塾・河野)はかわいそうだ。松井という世紀の打者と勝負する機会を失ったのだから」と語っている。
[編集] 連続敬遠に関する賛否の意見
松井への敬遠事件は賛否両論を含め物議を醸し、大きな社会問題に発展した。
- 連続打席敬遠を擁護する意見
- 敬遠がルールで認められている以上は問題ない
- 星稜は松井の打席において、常に出塁することができており、その出塁を生かすことができなかったにすぎない
- それまでの数年、高知勢の成績が低迷しており、地元からも初戦勝利や上位進出のプレッシャーがあった
- 当時、明徳義塾はエース・岡村憲二が怪我をしており、登板した河野は本来外野手の急造投手だったこと、河野では松井とまともに勝負が出来ないと馬淵監督が判断したから
- 「教育的でない」というが、強いものとはケンカをするなというのも一つの教育だろう(野坂昭如のコメント)
- 「才能のない凡人が工夫して勝つのを妨げ、怪物に打ち砕かれるのを観たがるのが教育なのか?」柔よく剛を制す
- プロ野球であれば興行である以上許される作戦ではないが、高校野球であれば別。実力格上と思える相手にルールの範囲内で工夫をし、勝利を目指すのは当然のこと
- 星稜は甲子園では松井が敬遠される(まともに勝負してもらえなくなる)ことはある程度予測していなくてはいけなかったはずなのに、それに対応した作戦を何も立てていなかったのでは。例えば当たっている山口を4番に置き、松井を3番に入れるように打線を組み替えるといったこともして好かったのでは。
- 何と言っても、こういった経験が、その後の松井の野球人生に大いに役に立っている。
- 連続打席敬遠に反対する意見
- 松井は全打席敬遠され、打者として全く勝負をしてもらえなかった
- 敬遠は得点圏に走者が存在するときには作戦として認められるが(特に3回の場面は通常でもありえる作戦である)、無走者における敬遠はやりすぎである(実際には走者が存在しなくても作戦として認められている)
- 高校野球はプロ野球とは違い、高校教育の一環としての課外活動の場で有り、勝つことだけにこだわり過ぎるのは如何なものか
主催者でもある朝日新聞には約700通もの投書があったが、5打席連続敬遠に対する反対が約40%、賛成が約34%、どちらともいえないが約26%だった(「ザ・甲子園 ヒーロー最強伝説」より)。
[編集] その後
星稜戦に勝った明徳義塾の宿舎には、試合終了直後から抗議や嫌がらせの電話と投書が相次いだ。また宿舎の周りには、明徳の馬淵監督や選手達の身を守る為に、警察やパトカーが出動するという厳戒態勢がしかれている。マスコミ陣も殺到し、その影響により明徳は、宿舎から自由に外出さえも全く出来ない状態となってしまった。馬渕監督自身『タバコも買いに行けなかった』と言うほど。又、明徳の宿舎から野球練習用のグラウンドへ外出する際も、多くの警備員にガードされながらの移動となる。その後、3回戦の抽選会に訪れた明徳の筒井主将に対してスタンドから「帰れ!」や「辞退しろ!」など野次を飛ばす者もいたが、選手たちはひたすら耐えるしかなかった。
1992年8月22日、明徳義塾の次の試合である3回戦は広島工との対戦となる(ちなみにこの年、明徳義塾は広島工とは練習試合では2試合戦っていたが、2試合とも明徳義塾の圧勝だった)。甲子園の観客からは、明徳ナインに対して野次が飛んだ。そんな試合の中、やはり敬遠騒動の余波によるダメージとプレッシャーは拭い切れず、明徳は本来のプレーを殆ど発揮出来ないまま、広島工に0-8と大敗を喫した。
この試合終了後、甲子園を去っていく明徳ナイン達に対しても野次が飛ばされた。明徳関係者は「周りは気になりませんでした。」誰もがそう言い切っていたが、明徳の青木貞敏捕手は「甲子園に来ない方が良かったかも…。星稜戦で勝ってから、宿舎でもムードが悪くて盛り上がらなかった。僕達も辛かったけど、全責任を負ってくれた馬淵監督はもっと辛かったはず。だから監督の為にも絶対に勝ちかったのに…」と泣きながら語っていた。河野投手は「一度勝てたので甲子園はいい思い出になりました。」と語っていた。
大会閉会式の際、牧野直隆会長は、大会講評にて印象に残った試合で星稜ー明徳義塾戦を挙げただけで敬遠事件騒動に関しては一切触れなかった。
地元の高知では、やはり勝つための野球としての評価はされず、凱旋帰郷とはならなかった。
[編集] 甲子園大会終了後
その後、秋のべにばな国体では、星稜は2回戦敗退ながらも異例の選出となった。そこで松井は、国体決勝戦の尽誠学園戦、最後の打席で高校通算60号の本塁打を放つなどの活躍により、星稜高校の国体優勝に大きく貢献した。なお松井は本塁打を放った時に、尽誠学園のベンチ側に対し「勝負してくれてありがとうございます」というお礼の脱帽をしている。また、その試合で、松井の次の打者として打席に立った月岩選手にも本塁打が出た。
明徳義塾の馬淵監督は、世間を大きく騒がせ迷惑を掛けたお詫びにと、明徳の学校長に対して野球部監督の辞表を提出しようとした。しかし、学校長は「もう過ぎた事。今日からまた頑張りなさい」と辞表を受け取らずに慰留、馬淵はそのまま野球部監督を続行する。その後しばらく明徳は甲子園から遠ざかったが、1996年の第68回選抜高等学校野球大会に明徳は4年ぶりに甲子園出場を果たした。
プロに入り、1996年には巨人のリーグ優勝が決まり後はタイトル争いが注目され、セリーグ本塁打王を松井秀喜が獲得するか、当時中日の山崎武司が獲得するかに注目が集まっていた。中日との東京ドームでの最終戦の10月8日、星野仙一監督が松井に本塁打王を取らせないようにすることを目的で投手陣に松井とは一打席も勝負しないよう命じた。松井の最終打席の4打席目の敬遠後にライトスタンドから大量のメガホンが投げ入れられ、試合は中断された。試合後、松井が甲子園での5連続敬遠の時と比較したインタビューに対して「そりゃあ、あの時の方が悔しかったですよ。今年は優勝できましたけど、あの時は優勝できませんでしたから」と語っていた。
10年後の2002年の第84回全国高等学校野球選手権大会では、その馬淵監督率いる明徳義塾が優勝した。その際、高校卒業後にプロ入りし、当時読売ジャイアンツの4番打者として活躍していた松井秀喜は「僕の5敬遠でこの10年間、監督さんもいろいろと大変なこともあったと思うけれど、こうして大きな喜びを得たことを素直に祝福したい」「今ではいい思い出です。負けたことは悔しいが5敬遠は打者としての誇りです」とコメントをしている。
その一方で、松井を5連続敬遠した投手の河野は、卒業後専修大学に進学しプロを目指したが、この「松井5連続敬遠事件」でのダーティなイメージを植えつけられたせいか、卒業年のドラフト会議ではどの球団からも声がかからなかった(なおこの時指名を受けた同僚に、後の広島のエース・黒田博樹がいる)。その後社会人野球のヤマハに進んだものの、松井が海を渡ったのと前後して河野もヤマハを退社(これに関しては馬淵が猛反対していた)、中日の秋季キャンプのテストに参加したり(結果は不採用)、さらにはアメリカに渡ってアメリカの独立リーグ球団を転々とした。ジャパン・サムライ・ベアーズを解雇された後に帰国、現在は会社勤めのかたわら千葉熱血MAKINGでプレーしている。
馬淵は現在でも当時を回想したインタビューで「あの作戦は今でも正当だと思っている。当時としては最善の策だった」と述べている。
[編集] 関連書籍
- 中村計「甲子園が割れた日―松井秀喜5連続敬遠の真実」新潮社
- 横尾弘一「四番、ピッチャー、背番号1」ダイヤモンド社
- 報知高校野球 92年No.5 第74回全国高校野球選手権大会
- アサヒグラフ 92年9・5 第74回全国高校野球選手権大会
[編集] 脚注
- ^ (1984年10月4日) 宇野と掛布 連続5四球. 朝日新聞 朝刊 17頁 9段.