東福寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
東福寺 | |
---|---|
本堂(仏殿) |
|
所在地 | 京都府京都市東山区本町15丁目778 |
位置 | 北緯34度58分37.38秒 東経135度46分26.74秒 |
山号 | 慧日山(えにちさん) |
宗派 | 臨済宗東福寺派大本山 |
本尊 | 釈迦如来 |
創建年 | 嘉禎2年(1236年) |
開基 | 九条道家 |
正式名 | 慧日山 東福禅寺 |
札所等 | 京都五山四位 |
文化財 | 三門、絹本著色無準師範像、宋版太平御覧他(国宝) 禅堂、絹本著色釈迦三尊像、木造地蔵菩薩坐像他(重要文化財) |
東福寺 (とうふくじ)は、京都市東山区本町にある臨済宗東福寺派大本山の寺院。山号を慧日山(えにちさん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は、九条道家、開山(初代住職)は聖一国師円爾(しょういちこくしえんに)である。京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄えた。明治の廃仏毀釈で規模が縮小されたとはいえ、今なお25か寺の塔頭(たっちゅう、山内寺院)を有する大寺院である。
境内には宋から伝わった「通天モミジ」と呼ばれる三葉楓(葉先が3つにわかれている)など楓の木が多い。もとは桜の木が植わっていたが「後世に遊興の場になる」という理由で伐採され、楓の木が植えられたものである。
また、明治時代の日露戦争の際には寺域が接収され、ロシア兵捕虜の収容施設となっていた。
目次 |
[編集] 歴史
東福寺は京都市東山区の東南端、伏見区と境を接するあたりにある。この地には延長2年(924年)に藤原忠平によって建てられた藤原氏の氏寺・法性寺(ほっしょうじ)の巨大な伽藍があった(法性寺は、JR・京阪東福寺駅近くに小寺院として存続している)。嘉禎2年(1236年)、九条道家(摂政・鎌倉将軍藤原頼経の父)は、この地に高さ5丈(約15メートル)の釈迦像を安置する大寺院を建立することを発願、寺名は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ取って「東福寺」とした。5丈(約15メートル)の釈迦像を安置する仏殿の建設工事は延応元年(1239年)から始めて、完成したのは建長7年(1255年)であった。高さ5丈の本尊釈迦像は元応元年(1319年)の火災で焼失、14世紀半ば頃に再興されるが、明治14年(1881年)の火災で再び焼失している。なお、東福寺には巨大な「仏手」(現存部分の長さ2メートル)が保管されており、旧本尊像の左手部分のみが明治の火災の際に救い出されたものと推定されている[1]。これは創建時の本尊ではなく、14世紀に再興された本尊像の遺物であるが、本尊の「高さ5丈」(約15メートル)というのはあながち誇張ではなかったことがわかる。
九条道家は開山(初代住職)として、当時宋での修行を終えて帰国していた禅僧・円爾(えんに、1202-1280)を迎えた。円爾は駿河国(現在の静岡県)の人で、嘉禎元年(1235年)、宋に渡って径山(きんざん)興聖万寿禅寺の高僧・無準師範(ぶしゅんしばん、1178-1249)に入門。印可(師匠の法を受け継いだというお墨付き)を得て仁治2年(1241年)、日本へ帰国した。円爾ははじめ九州博多の承天寺に住したが、同寺が天台宗徒の迫害を受けて焼き討ちされたため、九条道家の援助で上洛、東福寺の開山に迎えられた。
東福寺の建設工事は30年以上に亘って続き、法堂(はっとう、顕教寺院の「講堂」にあたる)が完成したのは文永10年(1273年)であった。その後、元応元年(1319年)の火災をはじめたびたび焼失するが、九条家、足利家、徳川家などの援助で再建されてきた。近代に入って1881年にも大火があり、仏殿、法堂、方丈、庫裏などがこの時焼失した。現在の本堂、方丈、庫裏などは明治以降の再建だが、国宝の三門をはじめ、東司(便所)、浴室、禅堂などは焼け残り、中世の建物が現存している。
東福寺からは歴代多くの名僧が出ているが、中で特筆すべきは、『元亨釈書』の著者である虎関師錬(こかんしれん)と、室町時代に画僧として活躍し、その後の仏画や水墨画に多大な影響を及ぼした吉山明兆(きつざんみんちょう)であろう。
[編集] 伽藍
三門、本堂、方丈、庫裏などからなる主要伽藍の北・南・西に計25か寺の塔頭寺院がある。主要伽藍の北には洗玉澗(せんぎょくかん)という渓谷があり、西から東へ臥雲橋、通天橋、偃月橋(えんげつきょう、重文)という3本の橋が架かる。通天橋は、本堂から通じる廊下がそのまま屋根付きの橋となったもので、この付近は特に紅葉の名所として知られる。橋を渡った先(北側)には、開山円爾を祀る常楽庵がある。
- 三門(国宝)
- -五間三戸二重門である。「五間三戸」とは正面の柱間が5つ、うち中央3間が通路になっているという意味、「二重門」は2階建ての門だが、「楼門」と違い、1階と2階の境目にも軒の出をつくるものを言う。応永年間(15世紀初頭)の再建で、現存する禅寺の三門としては日本最古のものである。上層には釈迦如来と十六羅漢を安置する。
- 本堂(仏殿兼法堂)
- 入母屋造、裳階(もこし)付き。1881年に仏殿と法堂が焼けた後、1917年から再建工事にかかり、1934年(昭和9年)に完成した。高さ25.5メートル、間口41.4メートルの大規模な堂で、昭和期の木造建築としては最大のものと言われている。天井の竜の絵は堂本印象筆である。本尊釈迦三尊像(本尊は立像、脇侍は阿難と迦葉)は、1881年の火災後に万寿寺から移されたもので、鎌倉時代の作である[2]。
- 方丈
- 1890年の再建。庭園は近代の造園家・重森三玲の作で、方丈を囲み、東、西、南に配される。西庭の石組は竜が海中から黒雲を得て昇天する姿をあらわす。石と苔を幾何学的な市松文様に配した北庭が特に著名である。隣の庫裏は1910年の再建。
- 常楽庵
- 主要伽藍の北側に位置する。開山円爾像を安置する開山堂とその手前の昭堂を中心とした一画。文政2年(1819年)焼失後、同9年(1826年)までに再建された。昭堂の中央部分は2階建の楼閣となっており、伝衣閣(でんねかく)と称する。金閣(鹿苑寺)、銀閣(慈照寺)、飛雲閣(西本願寺)、呑湖閣(大徳寺塔頭芳春院)と並び「京の五閣」といわれている。
- 禅堂
- 貞和3年(1347年)に再建された豪壮な姿に往時の隆盛がしのばれる単層・裳階(もこし)付切妻造りの建物で、中世期より現存する最大最古の禅堂である。
- 東司(とうす)
- 室町時代唯一(日本最古最大)の禅宗式の東司(便所)の遺構で、多くの修行僧が一斉に用を足すことから百雪隠(ひゃくせっちん)とも呼ばれる。内部は中央通路をはさんで左右両側に円筒の壺を埋める。
- 浴室
- 前面を入母屋造、後方を切妻造にした単層本瓦葺の建物で、1459年に建てられた京都最古の浴室建築の遺構として知られる。内部は正面板敷きの上に2つの蒸し風呂が並び、後方に釜と焚き口がある。
- 月下門(月華門)
- 板蟇股(かえるまた)など細部にわたり鎌倉時代の特色をよく残す切妻造・檜皮葺木の四脚門で、文永5年(1268年)に一条実経が常楽庵を建立した際に亀山天皇が京都御所の月華門を下賜されたと伝えられる。
- 六波羅門
- 南正面に立つ本坊伽藍の最南端にある鎌倉時代前期の門で、もと北条氏の六波羅政庁にあったものを移したことから、この名で呼ばれている。
- 偃月橋
- 本坊より塔頭、龍吟・即宗両院に至る三ノ橋渓谷に架かる単層切妻造り・桟瓦葺きの木造橋廊で、下流の通天・臥雲両橋とともに東福寺三名橋と呼ばれる。
- 通天橋
- 仏殿から開山堂(常楽庵)に至る渓谷・洗玉澗(せんぎょくかん)に架けられた橋廊で、天授6年(1380年)に春屋妙葩(しゅんおくみょうは)が谷を渡る労苦から僧を救うため架けたと伝えられる。昭和34年(1959年)台風で崩壊したが2年後に再建、その際橋脚部分は鉄筋コンクリートとなった。
- 光明宝殿
- 本堂東側にある文化財収蔵施設で、1981年に完成した。東福寺および塔頭寺院の文化財を収蔵するが非公開である。
[編集] 主な塔頭
- 龍吟庵
- 本坊庫裏の背後、偃月橋を渡ったところの山裾の平坦地に位置する塔頭で、東福寺三世・南禅寺開山である無関普門の塔所(墓所)として、入寂直前に創建された。(毎年11月に一般公開)
- 芬陀院(ふんだいん)
- 元亨年間(1321-1324)に当時の関白であった一条内経が父の菩提を弔うために創建した塔頭で、水墨画を大成した雪舟の作と伝えられる名庭があることから雪舟寺とも呼ばれている。(公開塔頭)
- 霊雲院
- 明徳元年(1390年)に岐陽方秀が開いた塔頭で、肥後細川家の信仰をうけ、寛永年間(1624-44)に「遺愛石」と銘をつけた須弥台と石船を寄贈されたという。(公開塔頭)
- 同聚院(どうじゅいん)
- 室町時代中期の文安年間(1444-1448)に東福寺第129世が開山した塔頭で、定朝の父・康尚の作といわれる本尊・不動明王坐像(重文)は、寛弘3年(1006年)に藤原道長が旧法性寺に建立した五大堂の中尊と伝える。(公開塔頭)
- 光明院
- 明徳2年(1391年)に金山明昶(きんざんみょうしょう)により創建された塔頭で、重森三玲による「波心の庭」がある。(公開塔頭)
- 天得院
- 正平年間(1346-70)に東福寺第30世・無夢一清禅師が開いた塔頭で、びっしりと杉苔に覆われた枯山水の庭園に凛と咲く桔梗の青や白の花が美しい。(6月中旬~7月上旬、11月1日~30日のみ一般公開)
- 退耕庵
- 貞和2年(1346年)に東福寺第43世住持・性海霊見(しょうかいれいけん)によって創建された塔頭で、応仁の乱により一時荒廃したが、慶長4年(1599年)に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)によって再興された。(拝観には予約が必要)
- 万寿寺(まんじゅじ)
- かつては下京区万寿寺通高倉にあったとされ、京都五山の第五位として大いに栄えていた。天正年間(1573-1592)に現在地に移された。
[編集] 文化財
[編集] 国宝
- 三門
- 絹本著色無準師範像 嘉煕二年の自賛がある -南宋時代1238年の作。無準師範(ぶしゅんしばん)は、開山円爾の師にあたる宋の高僧。禅宗では、弟子に師匠の肖像画を与えることは、修行が完了したことの印であり、この肖像画も円爾が師から与えられたものである。
- 無準師範墨蹟(円爾印可状)(絹本)-南宋時代1237年の筆。「墨蹟」は禅宗高僧の筆跡を指す用語。これも円爾が修行の証しとして師から与えられたものである。
- 禅院額字ならびに牌字(はいじ)19幅
- 宋版太平御覧 103冊
- 宋刊本義楚六帖 12冊
なお、塔頭龍吟庵(りょうぎんあん)の方丈も国宝である。
[編集] 重要文化財
重要文化財の絵画、彫刻、工芸品、文書等の多くは光明宝殿に保管されているが一般公開はされていない。また、絵画等の一部は東京と京都の国立博物館に寄託されている。
- (建造物)
- 六波羅門
- 浴室
- 東司
- 禅堂
- 偃月橋
- 三聖寺愛染堂
- 月下門
- 二王門
- 鐘楼(所在万寿寺)
- 十三重塔(石造)
- 常楽庵開山堂・昭堂、客殿(普門院)、塔司寮(書院)、庫裏、楼門、鐘楼、裏門
- (絵画)
- 絹本著色五百羅漢図(伝明兆筆)45幅
- 絹本著色釈迦三尊像
- 絹本著色応菴和尚像
- 絹本著色聖一国師像 乾峯士曇の賛がある
- 絹本著色聖一国師像 弘安三年五月の自賛がある
- 紙本著色聖一国師像 明兆筆
- 紙本墨画聖一国師像 伝明兆筆(岩上像)
- 絹本著色藤原道家像
- 絹本墨画維摩居士像
- 紙本淡彩達磨蝦蟇鉄拐像 明兆筆 3幅
- 紙本著色四十祖像 明兆筆 40幅
- 紙本淡彩東福寺伽藍図(伝雪舟筆)
- 普門院方丈障壁画 74面
- (彫刻)
- 木造釈迦如来及び迦葉阿難立像(仏殿本尊)
- 木造僧形坐像
- 木造地蔵菩薩坐像
- 木造二天王立像
- (工芸品)
- 朱漆牡丹唐草文透彫卓
- 梵鐘 - 奈良時代の作品
- (書跡典籍、古文書)
|
|
[編集] ギャラリー
[編集] アクセス
[編集] 東福寺を舞台にした映画
[編集] 参考文献
- 井上靖、塚本善隆監修、大岡信、福島俊翁著『古寺巡礼京都18 東福寺』、淡交社、1977
- 竹村俊則『昭和京都名所図会 洛東上』駸々堂、1980
- 『週刊朝日百科 日本の国宝』71号(豊国神社ほか)、朝日新聞社、1998
- 『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社
- 『角川日本地名大辞典 京都府』、角川書店
- 『国史大辞典』、吉川弘文館
- 「特集:東福寺の中世彫刻」『MUSEUM』591号、中央公論事業出版、2004
[編集] 関連項目
[編集] 注
- ^ 根立研介「東福寺の彫刻 -南北朝・室町時代の遺品を中心に-」(『MUSEUM』591号)、中央公論事業出版、2004
- ^ 浅見龍介「東福寺仏殿釈迦三尊像について」(『MUSEUM』591号)、中央公論事業出版、2004