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庭園 - Wikipedia

庭園

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

庭園(ていえん)とは、見て、歩いて楽しむために、樹木を植えたり、噴水花壇を作ったりなど、人工的に整備された屋外施設。日本では、自然を模して川・池・築山などが作られ、木や草が植えられているものもある。

目次

[編集] 中国の庭園

中国の庭園には大きく分けて、苑囿と呼ばれる皇帝所有の大規模自然庭園と、貴族、官僚、豪商などの私邸庭園の別があり、両者の性格と規模は異なるが、造園の手法には共通点も少なくない。

[編集] 皇帝所有の庭園

苑囿の出現は代にさかのぼると伝えられるが、造園の事跡が確認される古代の実例としては、始皇帝の上林苑のほか、咸陽の離宮で渭水の水を引いて池を作り楕族山を築いているのは人工的な築山の先駆である。前漢武帝は上林苑を拡張し、建章宮では太液池中に東海神山をかたどった築山を作った。茂陵の袁広漢の造園は石の築山、砂の洲浜を備え、珍奇な禽獣や樹木を集め、多くの建築を配したもので、すでに山水、花木と建築を組み合わせる中国庭園の原型がうかがえる。

下って後漢梁冀の広大な苑囿、南北朝時代では北魏の張倫、劉宋の戴媛らの造園もまた山水を主たる園景としたものであった。また、煬帝東都の西苑、長安曲江、大明宮后苑、北宋東京の艮岳、金明池、大都の太液池などに代表される歴代王朝の苑囿は、豪壮な規模と華麗な園景によって知られる。

[編集] 貴族所有の庭園

貴族官僚の庭園では、白居易の廬山草堂、王維の土川別業は歴史に名高く、また北宋西京南宋臨安、呉興などの地にあった数多くの名園については文献の記述からその自然園景の画趣が伺える。しかし、これらの史上に名高い苑囿・庭園はいずれも失われ、古い時代の実例は伝わらない。現存する庭園遺構は、蘇州の芸圃や無錫の寄暢園などが代の風格を留めているのを除くと、いずれも代、大半は末期以降の再建を経ている。代表的遺構として、江南地方の私邸庭園に芸圃、寄暢園のほか、蘇州の留園、拙政園、滄浪亭、獅子林、網師園、環秀山荘、旋園、鶴園、揚州の个園、何園、片石山房、上海豫園南京の瞻園などがあり、また皇帝の離宮・苑囿には北京紫禁城西苑頤和園円明園承徳避暑山荘などがある。

[編集] 中国庭園に関する書籍

一方、遺構とは別に、往時の庭園の情況を録した『洛陽名園記』『呉興園林記』『游金陵諸園記』などの文献や、造園理論書を代表するの計成の『園冶』をはじめ、張南垣、周秉忠、の張佐、張然、葉降、李漁、仇好石、戈裕良らの造園論が伝わる。文献から伺い知る中国の造園は、人工的に築いた山水を造景の主題とする点では、ほとんど一貫している。園景としては自然を模倣して池、山、峰、谷、滝、洞などを築き、園内の配置は自由で不規則的なものが好まれ、花木とともに建築が観賞地点と園景対象の両面で主要な構成要素とされる点が特色といえよう。土、石の築山は漢代以来の伝統を有し、代には普遍化し、奇石の観賞は南北朝時代以降に文人の間で始まったものであり、詩や絵画からの寓意、借景や対景の手法とともに、中国の造園が長い伝統のなかで生みだした独自の手法に数えられる。同時に、『園冶』に代表される造園書の個別的手法と、その類型化をいっそう推し進めた現存遺構の諸要素が、その伝統の末期に属することも注意されてよい。

[編集] イスラムの庭園

ガーデンというのはガンという言葉、 ガードする、 守るという意味と、エデンの合成語である。 エデンというのは喜びとか楽しみという意味で、中世までの愛の庭やエデンの園は箱庭程度である。 イスラム世界ではペルシア語の「かぐわしい所」を意味するブースターン(bōyistān>būstān)に由来したアラビア語のブスターン (bustān) が庭園を指す用語として広く使われてきたが、この語は同時に菜園、果樹園を指すこともある。また楽園をも意味するジャンナ (janna、جنّة)、フィルダウス (firdaus) のほかラウダ (rau∂a)、バーグ (bāgh)、ハディーカ (ḥadīqa) など、庭園を指す言葉は少なくない。

イスラム世界の中心となる西アジア北アフリカの国々のほとんどは乾燥地帯に位置し、集落を取り巻くのは不毛の砂漠か荒野である。砂漠は単に視覚的に単調であるばかりでなく、無あるいは死を意味する忌まわしいものであり、この苛酷な自然を克服し改善して生まれたのがオアシスであり庭園であり、ここに人々の水と緑への渇望が集約されている。イスラムの庭園がきわめて人工的(整形的、幾何学的)な構成をとるのは、ひとつには範とすべき美しい自然が現実には存在しないからである。したがって、いわゆる借景という発想が生まれる素地はなく、まして水や緑を欠く枯山水などはイスラムの庭園の範疇には入らない。ユダヤ教キリスト教における「理想の庭園」の長い伝統を受け継いだイスラムにおいても、庭園は永遠の楽園のイメージとみなされている。つまりイスラムの庭園は理想化された「地上の楽園」である。

コーラン(47章、55章、76 章など)によると、楽園には涼やかな木蔭とよどみなく流れる川や泉があり、さらに蜜と乳と美酒の川が流れ、あらゆる種類の果物が実り、そして美しい乙女たちが住む天幕が張られているという。この理想の庭園はペルシア絨毯にも写されており、戸外・屋内を問わず随時華やかな空間を展開させることを可能にしている。イスラム文化の基盤にはサーサーン朝のペルシア文化の伝統があるが、庭園の場合も例外ではない。整然とした木立が並び、池泉が設けられ、鳥獣を飼育する苑囿をも兼ねた囲みのある古代ペルシアの宮苑パイリダエーザ (pairidaeza) は「塀で周囲を囲んだ」を意味する語であり、パラダイス (paradise) の語源にもなった。サーサーン朝の皇帝たちは塀で囲い込んだ広大な園林(バーグ)を設置し、そこに果樹や花卉を植え、東屋を営み、池泉に舟を浮かべ、鳥獣を放って歓楽や狩猟などの儀式を大々的に催したが、イスラム時代に入ってもイラン系のみならず中央アジアやイラン地域では、テュルク・モンゴル系の王族たちも競って都市の郊外に大規模なバーグを多数建設した。これらペルシア文化の伝統は、イスラムの支配に下った後も長く保持され続けたのである。なおペルシア語で「天国、楽園」を意味するフィルダウスとはパイリダエーザの近世ペルシア語形である。

イスラムの庭園で最も重要な要素は水、植栽、パビリオンである。さまざまな水源から引かれた水は、概して直線的な水路を通って長方形ないし正方形に区画された花壇に配分される。中央で直角に交叉して全体を4分割するイランのチャハール・バーグ(چهارباغen:Chahar Bagh)がその典型である。水景施設としては噴泉、方形の人工池(ハウド)などが設けられる。イスラムの庭園は起伏の少ない平面的な構成をとるものが多いが、傾斜地では階段状に庭園が設けられ、落差を利用した滝が造られることもある。

植栽としては伝統的に果樹園に類するものが多く、オレンジザクロイチジクをはじめ、ピスタチオクルミアーモンドなどの堅果類も好まれた。地域によって乾燥に強いタマリスクサンザシなどが選ばれるほか、マツスギナツメヤシプラタナスポプラヤナギクワテンニンカなどの常緑樹、落葉樹が植えられた。草花はジャスミンバラケシ、イチハツ、ラベンダーなど多種多様である。宮殿を含めたイスラム世界の住宅建築において、外界から隔離された憩いの場である中庭は伝統的に建物と不可分の関係にある。庭園のもう1つのタイプ、すなわち郊外に造られることの多い公園のような規模の大きい庭園にも必ずパビリオンが建てられている。建築的にはなんら統一的な形式もスタイルもなく、各地の伝統がそれぞれ生かされている。一般に庭園の周囲には高い塀が巡らされる。それは、吹きつける砂塵や草木を食い荒らす家畜の侵入を防ぎ、街の喧騒を遮断する機能をもっている。もちろんイスラム以前のペルシアのパイリダエーザの伝統とも無関係とはいえない。以上の一般的な庭園に加えて、アーグラタージ・マハルに代表される、王族や聖人の墓妓を中心にした特殊な庭園がトルコイランなどで造られた。

イスラム世界における庭園の歴史は、各地に残る考古学的資料や文献によって8世紀前半にまで遡ることができる。おもな庭園跡としては、サーマッラーカリフの宮殿・邸宅ジャウサク・アルハーカーニーの庭園跡、コルドバ近郊の夏の宮殿メディーナ・アサハーラの庭園跡、セビリアアルカーサルのカスル・アルムバーラクの庭園跡、グラナダアルハンブラ宮殿ミルテパティオ、夏の離宮ヘネラリーフェの庭園などがおもな例である。一方、アケメネス朝以来の造園芸術の伝統があるイランでは、イスファハーンのチェヘル・ストゥーン宮殿の庭園、アシュラフのチェヘル・ストゥーン、テヘランのゴレスターン宮殿の庭園、シーラーズのバーグ・エ・タフト、バーグ・エ・エラーム、カーシャーンのバーグ・エ・フィンなどを挙げることができる。

[編集] 西洋の庭園

[編集] 古代エジプト、西アジア

古代エジプト西アジアの庭園のようすが詳しく知れるような遺構は残存していないが、文献、壁画などからある程度まで推察をすることは可能である。たとえば古代エジプトにおいては、紀元前14世紀第18王朝の上流階級の住宅のようすを描いた壁画から、整然と区画され矩形の池を配した庭の存在が知られ、園亭、パーゴラなどの施設が造られていたこともわかる。また聖域の聖性を高めるための植樹が行われたのは、西アジアにおいても同様であった。

古代西アジアの庭園も古くからの歴史をもつが、なかでも新バビロニア時代のバビロンの空中庭園世界の七不思議として古来喧伝されてきた。これは宮殿の屋上、あるいはそれに相当する高みに造られたテラス式の庭園と思われ、おそらくその規模と、ユーフラテス川を水源とした揚水技術が驚異の的となったのであろう。

具体的な遺構を欠くために、推測の域を出ないものの、この地域がヨーロッパにおける庭園のイメージの源泉を形作ったことは間違いのない。古代オリエント神話における、聖なる泉を中心とする楽園の描写は、旧約聖書の記述を通じて中世ヨーロッパの人々の庭園観に少なからぬ影響を与えた。またルネサンス期の庭園には、それを具体的な形に移した、噴泉を中心に水路が方形の花園を四分するイスラム庭園の基本構成の投影がみられる。また古代ローマおよびイタリアルネサンスの庭園における揚水技術の展開も、東方にその淵源をもつと考えられる。

[編集] 古代ギリシア・ローマ

古代ギリシアにおいても、聖域、競技場や劇場などの公共施設、個人の大邸宅に林苑や庭園が造られていたことが、当時の資料によって知られる。しかしながら、ルネサンス以降のヨーロッパ庭園の展開に影響を与えたという点では、古代ローマの住宅やヴィラに付属した庭園が重要である。とりわけ小プリニウスがその友人に宛てた書簡のなかに記している彼の2つのヴィラ(トスカナ荘とラウレンティア荘)の列柱廊や園亭に飾られた庭の描写と、ローマ近郊のティボリに造られたハドリアヌス帝の広大なヴィラは、ルネサンスの庭園を計画した人々の重要なインスピレーションの源となった。古代ローマの住宅は、軸線上に配置されたアトリウムとペリステュルムの2つを諸室が囲む形を基本とし、さらにその奥に蔬菜園などが配される形を基本としたが、必ずしもそれのみにとらわれぬ多様な庭が造られていたことは、ポンペイエルコラーノオスティアなどの遺跡に明らかである。噴泉は好んで多用されたが、それとともに刈込み(トピアリア)がさかんに行われ、幾何学的な構成の生垣のほかに、文字や動物をかたどったものまでが造られた。また室内に壁画として庭のすがたを描くことも行われており、ローマ国立美術館に保存されている皇妃リウィアのヴィラの壁画はその好例であって、果樹が豊かに実を結び、噴泉が高く水を吹き上げる当時の庭園のようすをしのぶことのできる貴重な資料である。

[編集] 中世の囲い込まれた庭

中世は庭園芸術の低迷期であるとする説があるが、これは必ずしも当を得ない見方であろう。たしかにはなばなしい展開こそみられないものの、庭は中世上流階級の人々の生活にとって欠くべからざる存在だったからである。ギヨーム・ド・ロリス(fr:Guillaume de Lorris)およびジュリアン・ド・マレ(fr:Jean de Meung)による『薔薇物語』の挿絵に見られるような、垣をめぐらし装飾的な噴水を中心として構成された庭が、おそらく一般の邸館に付属する庭園のありようであったと思われ、そこには珍しい植物、鳥禽が集められたのであった。十字軍の遠征がこうした傾向にさらに拍車をかけたのはいうまでもなく、とりわけ東方の花や木が珍重された。当時の庭は、のちのルネサンス庭園のような変化に富んだ空間構成よりは、いかなる植物を集めるかに重点が置かれていたように思われる。またこうした中世の庭のようすは、「鎖されし園」を意味する「ホルトゥス・コンクルスス」と呼びならわされる、楽園に座す聖母マリアを描いた宗教画などにもうかがうことができる。回廊が方形の庭を囲い込む修道院の中庭形式も、この時代に完成したもので、これは中央に噴泉や雨水溜、井戸(あるいは宇宙軸、生命の樹の観念にもつながる象徴的な樹木)を配して、天上の楽園の観念的な表現ともなるものであった。

[編集] イタリア・ルネサンス

文化の他のジャンルと同じく、庭園においても新しい動きがいちはやく現れるのはイタリアにおいてである。しかしながら、15世紀頃の初期ルネサンスの庭園は、中世以来の伝統的な形式からの過渡期的な様相が強く、まったく新しいルネサンス独自の様式が展開するのは、16世紀に入ってからのことである。 イタリア・ルネサンスにおいて庭園芸術がめざましい発展をとげるのは、上流階級の人々が好んで営んだヴィラと、そこでくりひろげられる生活のゆえであった。都市の周縁部、あるいは郊外に造られたヴィラは、別荘というよりはひとつの知的サロンというにふさわしく、たとえばメディチ家コジモ大ロレンツォたちがフィレンツェの郊外に建てたヴィラ群は、当代最高の詩や音楽、芝居などに彩られた芸文の花開く場であった。これらは多く丘陵地帯を選んで営まれたが、その庭園は中世の庭の求心的で閉ざされた構成を脱して、大きな展望に向かって開いた構造をもつにいたっている。 たとえばトスカナ・フィレンツェ北方のフィエゾレの丘に築造されたヴィラでは、斜面に複数のテラスが配され、トスカナの田園の広々とした眺望が得られている。 しかし、のちの16世紀の庭園のように、テラス相互間を軸線(ビスタ)でつないで統一するといったイタリア式庭園の手法はまだ行われていない。このほか、フィレンツェ北西方のカレッジのヴィラも、よく当時の庭の面影を伝えている。

15世紀末から16世紀初頭にかけて、すなわち盛期ルネサンスの頂点に、文化の中心がフィレンツェからローマへと移ってきたときに、以後の庭園の構成に大きな影響を与える2つの庭が造られた。 1つは大建築家ブラマンテが設計したバチカン宮殿のベルベデーレ(en:Cortile del Belvedere)の中庭で、ここでは細長い敷地に軸線を通して奥行き方向に3段のテラスが築かれ、壮大な階段が空間のアクセントになって、最奥部は巨大なニッチに終わっていた。 また建築家でもあったラファエロジュリオ・デ・メディチ(のちの教皇クレメンス7世)のために造ったヴィラ・マダマ(it:Villa Madama)は、ハドリアヌス帝のヴィラに範をとったものだが、ブラマンテの例と同様な造りのほかに、グロッタを主題として大々的に採用したことと水を活用したことが際だっていた。 これらの特徴は、16世紀を通じてイタリアのルネサンス庭園の重要な特色となった。

16世紀に完成されたこのイタリア様式の庭園として、今日残存するもっともすばらしい例は、ローマ近郊のティボリにイッポリト・デステ(it:Ippolito II d'Este)の営んだヴィラ・デステ、およびローマ北方のバニャイア(it:Jacopo Barozzi da Vignola)のヴィラ・ランテである。 ともに傾斜地に営まれたものだが、前者は大がかりな水の使用に特色があり、後者は16世紀イタリア庭園に特徴的なジャルディーニ(幾何学的な庭園)とボスケ(叢林)の組合せの典型であった。さらにこれらの庭園が、邸館の内部同様、ギリシア神話ローマ神話の神々の像やさまざまな寓意像によって彩られていた。庭園は、メタファーとシンボルの体系として組み上げられていたのである。

[編集] フランス式庭園の成立

詳細は平面幾何学式庭園を参照

イタリア式庭園はヨーロッパ各国に大きな刺激を与え、そのボキャブラリーがアルプスの北方へと輸出されたが、やがてそのなかからフランスに新しい様式フランス式庭園への動きがあらわれ始める。まず宮廷造園家の家系に生まれたモレが、16世紀後半に刺斥文様を生垣に写しとったような刺斥花壇を開発し、さらに17世紀にいたってル・ノートルが、ブルボン朝の栄華にふさわしい壮大な様式を完成させた。ル・ノートルはボスケ(叢林)で庭園の主部を限りとり、そこに刺斥花壇、大噴泉などを整然と配して無限へと延びる見通し線を造りだした。とくにこのために彼が活用したのは、カナール(水路)である。ル・ノートルの出世作は、マザランのもとで大蔵縁をつとめたフーケの城館、ヴォー=ル=ヴィコントの庭園で、それは南北1.2キロメートル、東西0.6キロメートルの広さをもっていた。この庭がルイ14世の目にとまり、ル・ノートルは有名なヴェルサイユ宮殿の庭をデザインすることになる。ル・ノートルの関与した作品は、パリ周辺にたくさん残っており、シャンティイ、ソー公園、サン・クルーなどがおもなものである。

[編集] イギリス式庭園の流行

詳細は風景式庭園を参照

フランス式庭園もたちまちヨーロッパ各国の模倣するところとなったが、18世紀に入ると、イギリスにこれとまったく対照的な新しい庭園思潮があらわれ、場合によっては既存の名園までもがこれに造りかえらていく。この新しい庭は一般に「風景式庭園」と総称されるが、イタリアとフランスの庭がそれぞれの地形的特性をよく生かしたものであったように、それはイギリスのゆるやかな起伏をもつ丘陵の牧歌的な風景と思想をその基盤においたものとなった。

イギリスでは18世紀になって、17世紀に普及した平面幾何学式庭園に反発し、イタリアピクチャレスク風景画家などの影響も受けつつ生みだされたこの庭園様式はその後またたくまにフランスドイツなど全ヨーロッパと、そしてアメリカ合衆国へと持ち込まれていった。初期は景観美のみを追求し建物の周辺には人工的な花壇テラスが作られるようになる。

宮廷庭師だったチャールズ・ブリッジマンは庭を細かく区画する事を嫌い、大きく意匠することに努めた。彼の作庭したストウは庭園に外部と生垣などの境界を作らず、ハハァと呼ばれる掘割を使用して外部の空間と庭園とを接続させた。ブリッジマンのあと、ウィリアム・ケントが庭園における眺望を一幅の絵としてとらえる新しい傾向があらわれ、手本として17世紀のフランスの画家クロード・ロランニコラ・プッサンの描いたような古典的な神殿や廃墟の見えるローマ郊外の風景であった。

このような傾向に対して、ただ水と芝、樹木と起伏のみによる構成を主張したのが「ケーパビリティ・ブラウン」の渾名をもつランスロット・ブラウンであった。

ハンフリー・レプトン(en:Humphry Repton)は、このブラウンの考えを受け継ぎ、「ランドスケープ・ガーデニング」という概念を提唱、イギリスにおける、庭園デザインの伝統の礎を固めていった。この風景式庭園の思想の影響をもっとも強く被ったのはフランスであり、ジャン=ジャック・ルソーが晩年に隠棲したジラルダン(fr:Saint-Marc Girardin)縁のエルムノンビル(fr:Ermenonville)の館の庭や、マリー・アントワネットヴェルサイユに営んだ小トリアノン宮殿・プティ・トリアノンのアモーなど、さまざまな例が残されている。

[編集] ドイツの庭園

ドイツ文化圏は庭園の歴史においてはとくに独自の様式をつくりあげることなく、つねに各国の様式を採り入れて発展させてきた。イタリア式を採り入れたものとしては巨大なカスケードを配したカッセルのウィルヘルムスヘーエ(de:Bergpark Wilhelmshöhe)の庭園、フランス式を採用したものとしてはウィーンシェーンブルン宮殿、風景式庭園の例としてはミュンヘン近郊のニュンフェンブルク宮殿の改造部分などが挙げられよう。ただドイツ文化圏の特色として、単に時々に流行の形式を追うというよりは、さまざまなタイプを等距離において、形式を自由に選び取っている面もなくはない。また北方のロマンティシズムの色づけが、ドイツ文化圏の庭園に独特の幻想的な世界を築きあげていることも注意すべきである。

[編集] 都市公園の形成と20世紀の庭園

イタリアのルネサンス期には上流階級の庭園は公開が原則となっていたが、アルプスの北方ではこの習慣はなかなか広まらなかった。しかし18世紀になると、大都市においては上流階級の狩猟園の公開がしだいに行われ、19世紀の後半になると、公共の公園が庭園の新しいテーマとして登場する。各都市は競って公園を造り緑地を確保したが、そのデザインの基調となったのは、イギリスで発達した風景式庭園の思想であった。この種の公園として最大のものは、人口が増加しつづけるニューヨーク市が創設した面積850エーカーに及ぶセントラル・パークの計画であり、その設計にはフレデリック・ロー・オルムステッドがあたった。これは人口の密集するニューヨークにあって、今日もなお貴重な財産となっている。またこれを契機にオルムステッドは自らの職能をランドスケープアーキテクトと名乗る。

この影響下で、アメリカ各地では庭園作成手法は都市的なもの個人的なものを問わず、大都市圏の公園設計に主として用いられる風景式庭園を基調とする造り方と、所領の庭園復元や主にアメリカで各地に建設されるボザール様式(アメリカンボザール)の住宅や大学キャンパスなどの大規模な建物や建物群を有する敷地に適応させる整形式庭園とを使い分ける手法、さらにそれらを混在させて造る手法が1929年の大恐慌まで展開される。この種の庭園設計の手引書として1917年にはヘンリー・ハバードとテオドラ・キンブルによる『An Introduction to the Study of Landsxape Disign』が出版される。アメリカの富裕層は郊外に広々とした土地を求め大邸宅とそれに応じた庭園を求めた。

フランク・スコットは1870年出版の著書でアメリカの郊外住宅における理想的な庭園について述べているが、これは住宅群各棟が芝生の前庭を設けて隣接して続いていく状態を造りだし維持することで道行く人に道路沿いに広がる緑の広がりを鑑賞させるというもので、今日でもアメリカ各地で見られる景観を示している。当然個人庭園は住宅の背後に造られるが、こうした「戸外の室」アウトドアリビングとしての庭のデザインが成立していく。

19世紀末から20世紀初頭に登場する近代建築運動の登場にともなって、新たな庭園デザインが生まれてきた。ドイツではエルヴィン・バルトが同時代に流行したユーゲントシュティール(アール・ヌーボー)式の庭園を次々と手がける。また建築家ヘルマン・ムテジウスが建築と庭園の融合を主張し、1906年の自邸においては庭園を1室内のように整形式に区画区分し、パーゴラで建物との連続性を持たせるといった試みがなされる。著作でも1894年にチャールズ・プラットがイタリア式庭園についての書籍を著し、この中でイタリア式の屋外と屋内との統合、建築と敷地との関係を評価している。またフリッツ・エンケも1923年に著書で建築と庭園との関係を新たな視点で述べている。一方、アメリカのジャンス・ジャンセンは豊富な植物知識を武器にプレーリースタイルと呼ばれる庭園デザインに取り組んでいった。

アメリカでは中産階級のための、狭い敷地に建つ住宅マーケットが勃興していて、特に1929年の世界恐慌と後のニューディール政策の過程でそれまでの壮麗なネオクラシシズムないしボザール様式を誇る大規模邸宅は市場に姿を消していった。デザイナーによってアウトドアリビングとしての庭との格闘は1920年代中ごろから1920年代後半にかけて西海岸地区を拠点に活躍する建築家、庭園デザイナーにとって取り組まれていく。かの地では建築家のルドルフ・シンドラーとリチャード・ノイトラらによって建築と屋外空間の接触効果を最大限にもたらすデザイン的試みがなされ、パサティエンポ・ガーデンなど旧来式の庭園を設計していたトーマス・チャーチは1930年代後半から、Art and Arctecture誌のケーススタディー・ハウス数点を手がけ、プールが設けられ舗装される狭い敷地と西海岸特有の斜面立地条件、アウトドアリビングという観点からの庭づくりに取り組み、ダーネル(ドネル)・ガーデン、カーカムズ邸、マーチン邸、フィリップ邸、メイル邸、ビーチハウス・ガーデン等次々と代表作を生み出し、デザインを洗練させ独自のスタイルを確立するにいたる。

1925年開催の、のちにアールデコ博覧会と呼ばれるパリ万国博は、フランスのみならず世界の庭園史にとっても貴重な実例を示すものとなる。博覧会の作品はどれも小規模ながら、同時代の視覚芸術や実用芸術から得た理念の発露を試みている。作品はさまざまな素材で作成された彫刻、レリーフである意味見るものの意表をつくものであった。これらの小庭園は庭園の考え方を根本的に見直す時代が到来することを示唆するものとなった。もちろんロベール・マレ=ステファンとジャン&ジョエルマルテルが建造したコンクリートの木や、アルベル・ラプラードの鳥の庭に設けられた鳥かごなど、奇抜な印象なものが少なからずある。しかし一方でガブリエル・グーヴレキアンの水と光の庭のようにデザイン的に非常に際立ったものもあった。会場の中央遊歩道に接する三角形の敷地に押し込まれたその庭は、敷地の三角形が主要なモチーフとなっている。その過激な外観と厳密なデザインに単なる幾何学の実験にはとどまらない形態的な転換を示していた。その後グーヴレキアンの左右対称性と地表パターンの強調といったデザインの特徴は当時の庭園で流行した。翌年1926年にはドイツドレスデンで開催された庭園博覧会にグスタフ・アリンガーが「未来の庭園」と題した、当時の表現主義の影響を受けた庭園を出展する。

また同時期にフランスで書籍の装丁や内装デザイン方面で活躍していたデザイナーのピエール=エミール・ルグランがキュビズムなどの影響を受けた構成、幾何学パターンを多用したタジャール邸庭園を世に送り出す。のちに鮮やかな青のカスケード階段やバラの芝庭を備えたモダンな庭園、ノームキーグや華麗な曲線を描くエルウォンガー邸庭園を生み出すフレッチャー・スティールは、こうしたフランスの新しい庭園事例をアメリカの季刊雑誌で紹介し、それらの作品がアメリカの若手デザイナーを刺激する。フランスの新しい庭園デザインの新時代の到来を提示したこの論説は強烈な印象を与えたようであった。

また同時にモダニズム勃興期でもあった。ミース・ファン・デル・ローエがバルセロナパビリオンを、またワルター・グロピウスハーバード大学へ赴任し、1932年にはMOMAで「インターナショナルスタイル:1922以降の建築展」、1937年には「現代ランドスケープとその源泉展」とパリ国際博覧会で造園家による第一回国際会議が開かれている。

この結果、従来の二元論的な庭園作成手法は異議が唱えられ、主として若い世代の造園家/ランドスケープアーキテクトを中心として改革運動がアメリカで起こった。彼らは自然風景式と整形式とに分類し選択するといったことを求めず、モダニズムの美学、近代建築の有する秩序体系に合致しそこから発露される庭園デザインを求めたのである。

1935年バークレーを卒業したガレット・エクボはハーバードに移り1937年にPencilPoint誌9月号に都市住宅の小庭園数十件のプロトタイプを掲載、同じく『Freedam in the garden』や植物植栽計画についての論考を掲載していたジェームズ・ローズやダン・カイリーたちと共にアーキテクチュアルレコード誌などで記事の共同執筆連載を開始する。1939年にはジョージ・デリストンが『Gardens and Gardening』を出版し、ハーバード建築学科にはイギリスでベントレー・ウッド(C・カイメイエフ自邸)のランドスケープや自邸セント・アンズ・ヒルなどを生み出していたクリストファー・タナードが著作『Garden in the ModernLandscape(近代ランドスケープ)』を引っさげてやってきて、エクボらと新しい庭園デザインの運動を展開していく。運動がやがてサンフランシスコ近代美術館で「ランドスケープ・デザイン展」が開かれ、エクボは数々の作品と著作『Landscape for living』、さらに自邸ではアルコア社が開発したアルミを使用した庭園を、SOMと彫刻家イサム・ノグチらはコネチカット・ジェネラル生命保険会社中庭やパリ・ユネスコの庭園、カイリーは1955年グリッドリーの傑作ミラー邸を生み出していく。

こうした展開がさらに同時期、グンナール・アスプルンドとジガード・レヴェレンツの「スコーグスシュルコゴーデン(森の火葬場 The Woodland Cemetary)」ジェフリージェリコーのホープセメント工場の跡地利用全体計画、カイリーとエーロ・サーリネンらのジェファーソンメモリアル、フィリップ・ジョンソンのロックフェラー・ガーデン、サーリネンとチャーチのゼネラルモーターズ技術センター、ジェフリー・ジェリコーのギネスヒル高速道建設に伴う残土の芸術的利用計画、テオドラ・オルムンドソンとステイリーのオークランド、カイザーセンターの屋上庭園、タナードの教え子ローレンス・ハルプリンチャールズ・ムーアらの「シーランチ」、エクボが専門家として参加したナイヤガラの滝修復計画など、今日では現代の広汎な要求に応えて、庭園の枠を超えて環境全体のデザイン(環境デザイン)を手がける専門家の誕生をみており、都市内に建築その他と一体となって造られる公園や大規模な住宅地計画などに活躍している。

[編集] 日本の庭園

詳細は日本庭園を参照

海外の日本庭園
海外の日本庭園

「庭園」とは、集会、交流、留置などを目的とした庭ではなく、観賞、活動、思索などを目的とした庭、また一部には、特定の世界観や宗教観を投影したものもある。庭園は自然にできることはなく、他の形、石の配置、樹木の選択と組合せ、通路の作り方、建物の見せかたなど、すべて計画しデザインされている。

「庭園」という言葉は新しく、もともと「」と「」は別の意味である。「庭」は実業の場所、平坦な土地を指していて、囲われているの意味はない。植物の有無の区分はなく、古代では神事や政事の場所や屋前広場や、屋内の作業場、家まわりの空地などが、屋敷の敷地、という意味で「庭」の意味が通用している。古事記や仲哀記には神の託宣を聞く清められた空間を沙庭と呼び、神功紀には「為審神者」とあって神託を聞く審神者と呼んでいる記事がみられる。サニハは「神に供する神聖な稲を積み重ねる場」、と理解され、「神にささげる稲を育てる神聖で触れてはならない」と注釈されるユニハ(齋庭)とともに稲にかかわる神聖な空間として認識されていることがわかる。「園」は日本書紀の孝徳天皇紀にある「園」では歴史家の解釈では今日の庭園の意味としてよりも、一定の管理下にある果樹などを植えた空間とみられているが、所有主の領域を示す「囲われた土地」という意味を、後に野菜や果樹、また草花を栽培している場所に含ませた。

庭と園を合成した造語、「庭園」という語が発祥したのは明治以降で、19世紀末、明治20年代から30年代にかけて定着をみる。室町時代の記録では、足利義政の同朋衆である善阿弥は泉石の妙手と記されているほか、義政が相国寺塔頭内の蔭涼軒を訪れたとき『蔭涼軒日録』では、泉水御遊覧としていることから、泉石や泉水が池や滝、石組を持つ庭園の全体を示す表現に使われているようである。16世紀末頃に来日宣教師たちが作った日葡辞書では、庭園を表す表現として庭(NIWA)と園(SONO)、前栽(Xenzai)が掲載され、パテオと訳されている。江戸時代には京都の庭園案内書は『都林泉名勝図会』のように林泉という表現が現れている。庭園の語は造園対象からは対象や場所の意味から、空間の意味で表されている。つくる目的や方法は、時代や民族、宗教などによって異なり、さまざまな様式を生み出した。しかし、いずれも人々が理想とする環境を映し出そうとする点では共通している。楽園、浄土、パラダイスなどの現世的空間が庭園なのである。また庭や園という言葉も個別に意味を持つ単語として使用されている。

庭園は、作られたときには私的なものがほとんどだが、近代になって多くが、市民が楽しめる公園的な扱いをされるようになっっていった。従来、造園の対象とした庭園の場合はほとんど個人が生活する邸宅住居か寺院などが所有する庭園にすぎなかったのだが、今では、会社ビル、官庁、事務所、病院、学校、共同住宅、ホテル、公共の施設、建物の屋上などで、さらに造園自体も緑地、緑道、広場、自然公園、国土の環境保全というように対象範囲がひろがっている。

[編集] 飛鳥・奈良時代

飛鳥時代には中国から伝わった須弥山蓬莱山など仏教道教の世界観などを表現した庭園が造られたという。日本書紀において推古20年(612年)には百済から路子工が来日し、須弥山、呉橋を造ったことや、推古天皇34年(626年)条の年に没した蘇我馬子飛鳥川の畔にあった家の庭には、小池が掘られ、池には小島が築かれていた、という記録がある。「しま」は庭園を指す表現として使用された例があり、後に伊勢物語78段にも、仁明天皇の皇子人康親王の山科にある邸宅に、藤原常行が石を謙譲しようとして「島好み給君なり、この石を奉らん」といった話も伝えられている。 庭園の記録は草壁皇子の庭園などが『万葉集』の和歌に収められていて、歌に詠まれるような観照の庭であり、奈良時代の藤原京平城京の庭園跡は、1960年代以降の発掘調査によりいくつか例が知られ、曲水の宴に使われたと思われる水路の跡も見られる。これらの記録から日本独自の実際の景を模写する自然風景式庭園を形成してきたことが見受けられる。

[編集] 平安・鎌倉時代

9世紀に京都では地形を巧みに利用した作庭がみられ、御所の庭園に優れたものが多く造られていくが10世紀にはいると貴族らの居住空間である寝殿造の館に庭園が造られた。平安時代中期(10世紀)以後は貴族の私寺が増え屋敷の中に御堂を建て、また仏寺が別荘としての機能も果たし11世紀から12世紀を通じて眼前に極楽浄土の世界をつくろうと浄土式とよばれる庭園形式が生じる。

太山寺安養院の枯池式枯山水
太山寺安養院の枯池式枯山水
二条城
二条城
慶雲館本庭
慶雲館本庭

[編集] 室町・安土桃山時代

国師夢窓疎石は禅の修業と庭造りを同一レベルにおき、水墨山水画と根底を等しくするような、小さい書院の前庭としての狭い空間に、石組で山滝を表し、砂で川や海を象徴する自然山水を凝縮した枯山水の庭を作庭されていく。また15世紀後半から茶道・茶の湯が盛んになり茶室というジャンルが確立、茶室に付属して茶庭/露地が設けられた。

[編集] 近世

17世紀初め将軍あるいは大名は、屋敷に庭園を築く。これらは大名庭園と呼ばれ、これらから池泉回遊式庭園が発展する。大名庭園の中から18世紀初期に造られた現在の日本三名園がうまれるほか、18世紀後半になると園芸の流行が庭園にも影響し、園内に草花が植えられその結果菖蒲園、百花園や百草園、花屋敷など、庭園は入場料を徴収して公開見学させられ営業として成立させる。また水戸の偕楽園白河市南湖公園のように、大名庭園を庶民に開放し始める。

[編集] 明治から昭和へ

明治時代以降では、実業家・政治家などの庭園に有名なものがあるが、特に山県有朋は庭園好きで知られ、京都の無鄰庵、東京の椿山荘などを残している。庭師では植治こと七代目・小川治兵衛が活躍し、無鄰庵をはじめ円山公園慶雲館本庭など代表作は国の名勝に指定されているものが多い。

大正から昭和にかけては、自然の景趣を写そうとするもの、そして、「雑木の庭」が登場する。また古庭園の研究が行われ、重森三玲などが新しい庭園を模索した。 第二次世界大戦後、建築が近代化するにともない日本庭園も発展していった。中島健による日本芸術院会館の庭園、岩城亘太郎による鳳琳カントリー倶楽部、深谷光軌が手がけた京王プラザホテル外空間、鈴木晶道、枡野俊明の一連の作品群、などがそれである。

[編集] 形式

[編集] 日本の名園

他、著名な日本庭園を参照

[編集] 世界の名園

  • セントラル教会のクラウストルム(イタリア)
  • アルハンブラ宮殿(スペイン)
  • タージ・マハル(インド)
  • ベルベデレ園(イタリア)
  • エステ荘(イタリア)
  • ボール・ビコント(フランス)
  • ヴェルサイユ宮苑(フランス)
  • ストウ園(イギリス)
  • セントラル・パーク(アメリカ)
  • リージェントパーク(イギリス)
  • セント・ジェームズ・パーク(イギリス)

[編集] 関連項目

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