東京倶楽部
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東京倶楽部(とうきょうくらぶ)は、条約改正を目指す欧化政策の一環で井上馨によって1884年(明治17年)に開設された社交クラブである。1880年に結成された交詢社とともに、日本の社交クラブの草分け。
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[編集] 沿革
1884年、外国人との融和交際の為に設けられ、鹿鳴館をクラブハウスとした。北白川宮を総裁とし、明治天皇からも下賜金があった。政財界のトップクラスの人物が会員であった。そこでの使用言語は英語に限られ、日本語は勿論、他の外国語の使用も禁止された。また、英国のクラブを範としており、女性はクラブに出入りできなかった。[1]
鹿鳴館の廃止により、移転の必要に迫られた東京倶楽部であったが、井上馨が熱意を傾け、代替地を宮内省所有地に決めた。1896年、鹿鳴館と同じジョサイア・コンドル(会員の1人でもあった)の設計で、麹町内幸町に木造2階建てで竣工。1911年(?)東京倶楽部は、時の内務大臣平田東助の指導で社団法人となり、1912年(大正元年)、麹町三年町(現在の千代田区霞が関3丁目)に赤煉瓦2階建てで竣工した(この建物もコンドル設計)。
コンドルの建物は1945年5月の空襲で被害を受け、現存しない。1959年、跡地に地上6階地下1階の東京倶楽部ビルが建設されたが、近隣の文部科学省庁舎などの再開発の一環で解体され、東京倶楽部のクラブハウス[2]は、現在、港区六本木1丁目に移転した。
東京倶楽部ビルは2007年10月に地上14階地下1階、床面積は約2万3000平方メートルのビルが新築された[3]。1-3階には「霞ダイニング」と呼ぶ商業施設が、4-14階はオフィスフロアとなっている。[4]
[編集] 脚注
[編集] 提携先
以下の他いくつかの諸外国のクラブと相互利用等の提携を行っている。
[編集] 外部リンク
- 東京倶楽部 - 公式サイト