李信
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[編集] 戦績
[編集] 対楚戦
戦国の七雄を纏めるべく天下統一を進めていた秦王政(後の始皇帝)は魏を紀元前225年に滅ぼし、残る南方の大国・楚への侵攻を決めた。それに先立って秦王政は対楚戦にどれだけの部隊が必要かと聞いたところ、李信は「20万」だけを必要と語った。一方で王翦は対楚戦では「60万」が必要とした。秦王は王翦が耄碌したものと捉え、李信の案を採用した。その後、李信は蒙恬と共に20万の兵を率いて楚へ出兵したものの、項燕率いる楚軍に奇襲されて大敗を喫した(翌年、前述の王翦が60万の兵を率いて楚を攻めて、楚王を捕虜にし楚を滅亡させている)。
[編集] 対燕戦
紀元前227年の燕の太子丹が主導した荊軻による秦王政暗殺事件(失敗)以降、秦は燕への攻撃を行い、紀元前226年王翦と王賁(王翦の息子)は燕都・薊を攻略(燕の事実上の滅亡)、燕王と太子丹は遼河の東部に敗走した。この際に李信は約1000の兵を率いて追撃し太子丹を討ち取った。
[編集] 備考
対楚戦の失敗後も粛清されずに斉を滅ぼす戦に出陣している。子孫が残っていることからも秦王政(始皇帝)より一応の信用は得ていたと考えられる。尚、李信の曾孫が前漢時代の将軍・李広となり、その子孫には李陵がおり、唐の李白などは李信らの子孫を称している。