蒙恬
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蒙恬(もうてん ? - 紀元前210年)は中国の秦王朝の武将。匈奴討伐に功績を挙げたが、趙高たちの陰謀によって扶蘇と共に自殺させられた。
祖父の蒙驁(もうごう、驁は敖の下に馬)の時に斉より秦へ移り住み、祖父の蒙驁・父の蒙武ともに将軍として多大な功績を挙げた。
軍人の名門に生まれた蒙恬であったが、当初は文官として宮廷に入り、訴訟・裁判に関わっていた。
だがやはり軍人の名門と言うことで、将軍と成り、紀元前224年には李信の副将として楚討伐に加わったが、楚の項燕将軍(項羽の祖父)の前に大敗した。しかし紀元前221年の斉討伐では見事に斉を討ち滅ぼし、内吏(首都圏の長官)とされた。
その後の紀元前215年には匈奴を30万の軍を率いて攻め、オルドス地方を奪って匈奴を北へと追いやり、辺境に陣して長城、直道(直線で結ぶ道)の築造にもあたった。これらの軍功に始皇帝も大いに喜び、弟の蒙毅(もうき)も取り立てられ、蒙恬が外政に蒙毅が内政に両者とも忠誠と功績を認められた。この頃、始皇帝に焚書を止める様に言って遠ざけられた扶蘇が蒙恬の元にやって来て扶蘇の指揮下に匈奴に当たるようになった(扶蘇は始皇帝に疎まれたために蒙恬の所へ送られたとなっているが、蒙恬の監視役であったとも考えられる)。
しかし紀元前210年、始皇帝が死ぬと胡亥・趙高・李斯の三人は共謀して胡亥を皇帝に立てて自らの権力を護ろうと画策した。趙高らは始皇帝の詔書を偽造し、扶蘇と蒙恬に対して自殺を命じた。蒙恬はこれを怪しみ、真の詔書であるかを確かめるべきだと主張したが、扶蘇は抵抗せずに自殺した。蒙恬はなおも抵抗したものの即位した胡亥(二世皇帝)からの自殺命令が届くとやむを得ず、自殺した。蒙恬の死後、蒙毅も趙高により、言いがかりを付けられて皆殺しにされた。
蒙恬は自殺する際に「私に何の罪があって死ななければいけないのだろうか」と自らに問いかけ、「私が死なねば為らないのも無理はない。長い長城を築いて地脈を絶ったのだから」と言って毒を仰いだ。これに対して司馬遷の評は「天下が治まって未だ長い時間が絶たず、負傷者たちの傷はまだ癒えていなかった。そこで蒙恬は(始皇帝に信頼された)名将であるのだから始皇帝に諫言して民衆を安らかにすべきであった。それなのに始皇帝に阿って功績を挙げていたのだからどうして地脈のせいであろうか」と批判した。
蒙恬が獣の毛を集めて作り、始皇帝に献上したのが筆の始まりとされていた。しかし1928年に戦国時代の遺跡から筆が発見されたのでこの説は覆された。現在では甲骨文字の中に筆を表す文字が発見されており、筆の発明は殷代まで遡るのではないかと考えられている。蒙恬は発明者ではなく、改良者であったようだ。