王翦
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王翦(おうせん、生没年不詳)は中国戦国時代の秦の将軍。秦王政(後の始皇帝)に仕え、楚を滅ぼすなど秦の天下統一に貢献した。
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[編集] 略歴・人物
[編集] 秦の名将として
頻陽県東郷の人。秦王の政の十一年に初めて史書に登場し、同僚の楊端和らと共に魏の鄴を攻めて、さまざまな計略を用いてこれを陥落させている。これ以降、政に名将として重用されていたが、老年になってからは重用されなくなった。
[編集] 楚の平定
楚の平定に当たり、政から諸将へ見通しを問われた際、王翦は慎重な意見を述べたが、政は若い将軍の積極的で勇猛に聞こえる意見を採用し、楚への侵攻を任せた。ここで王翦は自ら引退を申し出、隠居する。しかしその後、楚へ侵攻した秦軍は項燕により大敗させられ、楚軍はその勢いのままに秦へ向けて進軍し、楚の平定どころか秦が滅亡しかねない程の危機となった。この危機に、政は楚を破れるのは王翦しかいないと判断し、王翦の邸宅を自ら訪ねて将軍の任を与え、王翦が「これだけの兵を与えて頂かねば楚軍は破れません」と言った通り、60万の兵を与える。これは秦のほぼ全軍であり、反乱を起こすには十分過ぎる数だったため、臣下には疑いを抱く者も多数いた。
王翦は楚軍の迎撃に出るが、行軍の途中ですら勝利後の褒美は何がいいか、一族の今後の安泰は確かかなどを問う使者を逐一政へ派遣した。そして国境付近に到着すると、堅固な砦を築いて楚軍を待ち受けた。楚軍もここへ到着し砦を攻め始めたが、その堅牢さに手を焼いた。一方の秦軍も防御に徹して砦から出なかったため、長らく動きの無い膠着状態となった。 楚軍は、攻めても挑発しても秦軍の出てくる気配が全く無く、砦も堅牢なため、これでは戦にならないと引き上げ始めた。しかし、これこそ王翦の待っていた機会であった。追撃戦で楚軍を破るために、砦に篭る間も兵達に食料と休息を十分に与え、英気を養っていたのである。王翦率いる秦軍は楚軍の背後から襲い掛かり、戦闘態勢になかった楚軍は散々に打ち破られてしまう。ついに総大将の項燕までもが討ち取られ、名将と主力軍を失った楚は一転して危機的状況に陥らされることとなった。
王翦は秦王政に逐一送った使者について、部下から「余りに度々過ぎて、秦王様の不興を買うのではありませんか」と訪ねられた際、「お前は秦王様の猜疑心の強さを知らない。今、私は反乱を起こそうと思えば、たやすく秦を征し得るだけの兵を率いている。秦王様は自ら任せたものの、疑いが絶えないだろう。私は戦後の恩賞で頭が一杯であると絶えず知らせることで、反乱など全く考えていないことを示しているのだ」と答えた。
王翦は政の猜疑心の強さを良く理解していた。引退を申し出たのも、政は役に立つ人間には丁重だが、役に立たないと判断した人間には冷淡で、特に権勢があるものはどれだけ功績があろうとも些細な疑いで処刑・一族皆殺しにしかねなかったためである(呂不韋・樊於期という実例もある)。自分の意見が採用されなかったことで、政が「王翦は老いて衰え、弱気になった」と思っていると察し、素早く将軍の座から退いた。実際に引退を申し出た際、政は全く引き止めなかった。このため、政自らから将軍に請われ、ほぼ全軍を与えられてもいい気にならず、猜疑を打ち消す心配りを絶やさなかったのである。
翌年、王翦は楚へ進軍し、楚の各地を次々と征服していった。そして遂に逃亡していた楚王の負芻を捕えて処刑し、楚を滅亡させた。
[編集] その後・子孫
王翦は楚の平定後も政に疑いを持たれることなく、天寿を全うすることが出来たと言われる。
死後、子の王賁が跡を継ぎ、孫の王離は章邯の武将として、鉅鹿にいた張耳と王の趙歇を追い詰めたが、急襲してきた楚の項羽の軍勢と戦い、間もなく捕虜にされたという。
『新唐書』宰相世系表二中によると、王離は秦の武城侯となり、王元・王威という息子がおり、彼等は秦の戦乱を避けて山東に移住したという。後世に漢の王吉、王駿、王崇、曹魏の王雄、晋の王祥、王導、王敦、王義之らを輩出した。いわゆる魏晋南北朝時代に名を馳せた瑯邪王氏である。つまり、瑯邪王氏は王翦、王離の末裔とされるのである。ただし、『漢書』王吉伝では王吉と王離の関係について触れておらず、『新唐書』の系図の信憑性には問題がある。