本部朝勇
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本部 朝勇(もとぶ ちょうゆう、1857年 - 1927年)は、琉球王国末期に生まれた琉球王族であり、本部御殿手古武術の第11代宗家である。弟に唐手(現・空手)家として名高い本部朝基がいる。
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[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
本部朝勇は、1857年、本部御殿(ウドゥン)の当主・本部按司(アジ)朝真の長男として、首里赤平村(現・那覇市首里赤平町)に生まれた。あだ名は、その高貴な血筋から「本部御前(ウメー)」(御前は按司につく尊称)と称された。御殿とは王族の邸宅を意味し、同時にそこに住む王族の尊称であった。本部御殿は尚質王(1629年 - 1668年)の第六王子、唐名・尚弘信、本部王子朝平(1655年 - 1687年)を元祖とする琉球王族であり、国王家の分家として、日本の宮家に相当する地位にあった。また、本部御殿は、代々本部間切(現・本部町)を領する大名であり、琉球王国最大の名家の一つであった。
[編集] 武歴
本部朝勇は、幼少の頃より本部御殿手を父・朝真より学び、また、当時の首里手の大家であった松村宗棍、糸洲安恒らをその邸宅に招いて、唐手を学んだとされる。糸洲が本部御殿で唐手を教え始めたのは、明治14年(1881年)頃からと言われているので、朝勇25歳の時からということになる。初めて空手を師事するにはやや高い年齢なので、父や松村に師事したのは、それ以前の幼少の頃から10代の頃であったと推定される。おそらく武芸の幅をさらに広げる目的で、当時すでに高名であった糸洲を招聘したのであろう。朝勇は、文武両道に優れ、武術以外にも琉歌、琉球舞踊にも優れた教養人であった。
廃藩置県頃には、すでに本部朝勇は同門の屋部憲通とともに、若手の唐手家としてその武名は広く知られていたといわれる。屋部とともに、泊手の大家・松茂良興作宅へ出かけ、松茂良の力量を試した逸話が伝えられている。また、弟の本部朝基が那覇にあった遊郭・辻町に夜な夜な出かけて、「掛け試し(一種の野試合)」に励んだのも、当初、組手で兄・朝勇にかなわなかったのが理由とされる。弟の朝基が剛拳である唐手の雄として後年名を成したのに対して、朝勇は当時の著名な諸大家をその邸宅に招いては、唐手のほかに、取手術、剣術、馬術など、幅広い武術を網羅的に修行していた。
[編集] 晩年
大正12、13年(1923、24)頃、本部朝勇は那覇に沖縄空手研究クラブを設立して会長に就任し、同15年(1926年)10月に、後進団体の「沖縄唐手倶楽部」が設立されて受け継がれると、これにも参画した。両団体は、唐手の共同研究を目的として設立されたもので、当時の沖縄の唐手の諸大家が多数参加していた。ここでは、若手の摩文仁賢和、宮城長順らが中心的なスタッフとして活躍し、本部は花城長茂らとともに長老格で参加して、若手に助言を与えていた。本部はその身分に敬意を表して、参加者から「按司加那志御前(アジガナシメー)」(按司の尊称)と呼ばれていた。
また大正13年(1924年)には、大正劇場(那覇)で開催された唐手大演武大会に出演して、祖堅方範、喜屋武朝徳らと共に演武した。この大会は、総勢40名が参加する盛大なものであった。本部朝勇は蹴り技に優れ、「本部の足(ひさ)」、「本部御前の蹴り(きりち)」と讃えられた。本部朝勇の弟子には上原清吉(本部御殿手)、兼島信助(渡山流)、千歳剛直(千唐流)、次男の本部朝茂などがいる。昭和3年(1927年)、病没した。
[編集] 参考文献
- 上原清吉『武の舞 琉球王家秘伝武術「本部御殿手」』BABジャパン出版局 ISBN 4894221845
- 長嶺将真『史実と口伝による沖縄の空手・角力名人伝』新人物往来社 ISBN 4404013493
- 外間哲弘『空手道歴史年表』沖縄図書センター ISBN 4896148894
- 摩文仁賢和・仲宗根源和『空手道入門―攻防拳法』(復刻版)榕樹社 ISBN 4947667311