本多忠次
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時代 | 江戸時代前期から中期 | |||
生誕 | 延宝7年10月21日(1679年11月24日) | |||
死没 | 正徳元年11月20日(1711年12月29日) | |||
別名 | 幸之助(幼名)、兵庫(通称) 毛利匡英(初名) |
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墓所 | 滋賀県東近江市の永源寺 | |||
戒名 | 高徳院殿貞山玄廉大居士 | |||
官位 | 従五位下、山城守 | |||
藩 | 三河挙母藩主 | |||
氏族 | 毛利氏→本多氏 | |||
父母 | 父:毛利綱元、母:池田光政の娘 養父:本多忠利 |
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兄弟 | 毛利吉元、本多忠次、毛利元矩 | |||
妻 | 正室:本多忠利の娘 | |||
子 | 本多忠央、竹次郎、娘(井上正之室) |
延宝7年(1679年)10月21日、長門長府藩の第3代藩主・毛利綱元の次男として江戸で生まれる。元禄5年(1692年)7月26日に挙母藩の初代藩主・本多忠利の養子となり、元禄13年(1700年)の忠利の死去により、家督を継いで第2代藩主となる。
しかし元禄14年(1701年)以来、領内で風水害が相次いで被害が大きく、そのために年貢収入は減少して藩財政が逼迫する。このため、有能な人材登用や養蚕業、綿などの産業振興に尽力して藩政改革を行なった。正徳元年(1711年)11月20日、挙母で死去。享年33。跡を子の本多忠央が継いだ。
死因は病死といわれているが、尾張藩の記録では10月に藩内で抗争が起こり、それによって忠次は近臣を誅殺したが、自らも近臣によって殺され、正室も自害したとされている。このような事情で改易を恐れた家臣団が、忠次の死因を偽り、時期をずらしたというものである。
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