徳川義親
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徳川 義親(とくがわ よしちか/ぎしん、1886年10月5日 - 1976年9月5日)は、植物学者、侯爵、貴族院議員、尾張徳川家第19代当主である。生物学者としては、昭和天皇の兄弟弟子にあたる。名の読みは「よしちか」で正しいが、明治維新以前の諱を音読みさせる風習(有職読み)に従い、一般向けには「ぎしん」と読ませていた(新聞記事や名古屋市長選挙の広報では、そうなっていた)。
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[編集] 経歴
1886年10月5日、元越前藩主である松平春嶽の五男として生まれる。幼名は「錦之丞」。上田藩松平の祐筆、宇川家で藩主松平の若君と宇川家の8人の子供達と幼少時から中学に入るまで育てられた[1]。
学習院初等科時代は臆病柔弱で成績劣等ゆえに1年から2年に進級できなかった。このため学習院の教師の家に預けられ、周囲の庶民と交わるうちに逞しさを身につけた。『十五少年漂流記』を読んだのをきっかけに、スタンリーやアムンゼンなどの探検家に憧れるようになり、諸種の探検記を読み漁る。成績は相変わらず最劣等だった。
1908年4月、尾張徳川家当主徳川義禮(よしあきら)の養子となって「義親」と改名。同年5月、養父の後を受けて同家19代となり侯爵を襲爵。1909年、義禮長女の米子と結婚。同年、学習院を卒業して東京帝国大学文科大学史学科に入学。歴史に興味はなく、単に無試験だったのでこの学科を選んだに過ぎないという。義親は尾張徳川家の領地であった木曽山林を対象に林政史を研究したが、政治史中心の国史論壇にあって酷評を受けた。
最劣等の成績で卒業後、1911年、同大学理科大学生物学科に学士入学。今度は入学試験を受けたが、尾張藩出身の服部広太郎の口利きで難なく入学を許された。専攻は植物学だった。イチョウを研究し、卒論「花粉の生理学」をドイツ語で提出し卒業。今度は最優等の成績だった。
卒業すると自邸内に研究室を設け、研究を続行。この研究室を発展させる形で、1918年、東京府荏原郡平塚村小山(現在の東京都品川区小山)に「徳川生物学研究所」を設立。この研究所では、桑田義備、服部広太郎、石川千代松、三好学、藤井健次郎、柴田桂太、谷津直秀、鏑木外岐雄、江本義教、清棲幸保、篠遠喜人、岸谷貞治郎、稲荷山資生、湯浅明、奥貫一男など多くの生物学者が活躍した。
このころ、北海道八雲町にある徳川農場(徳川慶勝が1878年に旧尾張藩士を移住させたのが起源)の経営に尽力し、ヒグマの害を減らす目的で熊狩りを毎年おこなう。北海道の土産物として有名な木彫りの熊は、伝統工芸品ではなく、この時期に義親が冬季の現金収入確保のためスイスから導入したものである。
1921年、蕁麻疹治療のためマレー・ジャワで転地療養した際、ジョホールのスルタンの招きでマレー半島に赴き、虎狩りや象狩りをおこなう。
1925年に成立した治安維持法の採決では貴族院議員で唯一の反対票を投じた。
1931年、尾張徳川家の古文書や家宝を管理する目的で、財団法人徳川黎明会を組織。同年、陸軍と右翼のクーデター未遂事件、三月事件に資金面で関与する。
1942年、軍政顧問としてシンガポールに赴任。イギリスから接収した植物園や博物館や図書館を、田中館秀三、郡場寛、羽根田弥太たちと協力して戦火や略奪から守り抜き、敗戦後はほぼ無傷で返還した。
戦後、日本社会党結成にあたり資金を援助した。また名古屋市長選挙にも自民党から推薦を受け出馬したが落選した。
[編集] ろう教育との関わり
義親は聴覚障害児の教育にも関心を寄せており、口話法の普及に大きな影響力を持った。しかし後に手話法の必要性を説く高橋潔の自宅を訪問して徹底的に討論した際、高橋に決定的に論破されて自説を捨て、手話法を擁護する立場に転向した。この時、高橋は激昂して「失礼ながら、あなたは馬鹿殿さまです」と義親に言い放ったと後に義親は回想している。
[編集] 略年表
- 1886年10月5日 - 元越前藩主である松平春嶽の五男として、誕生。幼名は「錦之丞」。
- 1908年4月 - 尾張徳川家当主徳川義禮(よしあきら)の養子となって、「義親」と改名。
- 1908年5月 - 養父の後を受けて、同家19代となり侯爵を襲爵。
- 1909年 - 義禮長女の米子と結婚。学習院を卒業し、東京帝国大学文科大学史学科に入学。
- 1911年 - 東京帝国大学卒業。同大学理科大学生物学科に学士入学。
- 1918年 - 東京府荏原郡平塚村小山(現在の東京都品川区)に、「徳川生物学研究所」を設立。
- 1921年 - 蕁麻疹治療のため、マレー・ジャワで転地療養。ジョホールのスルタンの招きでマレー半島に赴き、虎狩りや象狩りをおこなう。
- 1927年 - 所領の小牧山を、国に寄付する。
- 1931年 - 「財団法人 徳川黎明会」を組織。陸軍と右翼のクーデター未遂事件三月事件に資金面で関与する。
- 1942年 - 軍政顧問としてシンガポールに赴任。
- 1976年9月 - 脳内出血で逝去。享年89。
[編集] 作品
- 木曽山(1915年)
- 熊狩の旅(1921年)
- 馬来の野に狩して(1926年)
- じゃがたら紀行(1931年)
- 馬来語四週間 (朝倉純孝 共著)(1937年) - 後に「マライ語四週間」と改名。
- 江南ところどころ(1939年)
- 七里飛脚(1940年)
- 日常礼法の心得(1941年)
- きのふの夢(1942年)
- 新国民礼法(1942年)
- 木曽の村方の研究(1958年)
- 尾張藩石高考(1959年)
- とくがわエチケット教室(1959年)
- 最後の殿様(1973年)
[編集] 脚注
- ^ 義親の自伝によると、宇川家では若君とて容赦せず、厳しく躾るところは厳しく躾られたという
[編集] 関連書籍
- 広田苓洲『不逞侯爵徳川義親の罪を問ふ. 1』(1916年)
- 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』(1988年)
- 川渕依子『手話讃美』(サンライズ出版、2000年)
[編集] 関連項目
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