幸福
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幸福(こうふく、Happiness、Happy)とは、自ら満ち足りていると感じており、安心している心理的状態のこと。
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[編集] 概要
幸福は極めて主観的なものである。恋愛に例えれば分かりやすいが、個人・個性の数だけ価値観があるが、あくまでも本人の主観的な価値観によって、本人が満ち足りていると感じている心理状態をいう。
客観に外形的様式として所定の状態があるわけではない。また、幸福度を数値化(定量化)することも出来ない。例えば、本人以外の誰かには “幸福ではない”と見える状況にいるとしても、その評価はあくまで観察者の主観におけるものであり、その状況を当人が幸福だと感じていれば、それはまさしく幸福である。
幸福を欲求の充足に結びつけて考えてしまう人にとっては、欲求が満たされればそれは以前の状態に比べて幸福ということにはなるが、この欲求の正体が分からず、自分が何を求めているかが理解出来ずに焦燥感に駆られる人や、欲求に主導権を譲り渡してしまったことで、欲求が限りなく膨張しつづけそれを満たしつづけることが出来ず苦しむ人も少なくない。そんなこともあり、欲求に重点を置いた社会心理学者アブラハム・マズローの説明では、人の欲はある段階を達成すれば更なる高い段階を基準とするために「絶対的幸福というものは存在しない」などともされた。
この辺りは「曲肱の楽しみ」(曲肱:肘枕で寝る事・貧しい事の例え)等の語が端的に表している通り、やはり「楽しい」「幸福である」という状態はその主観において主体的に見出す事であり、如何なる状況においても、みずからの「心のありかた」を意識的に選び取ることよって見出すことができるとされている。
[編集] 幸福と法律
なお、法律でも幸福は扱われている。基本的人権には幸福追求権が含まれており、法律上誰でも等しく幸福になる権利を有していると考えられている。この幸福追求権は、他人の幸福追求権を不当侵害しない限りに於いて、制約される事は無い。他の表現をするならば、いくら己の幸福を追求していようが、他者の幸福を侵害しないことには注意を払う必要がある、ということである。
[編集] 幸福論
人間は古来より幸福になるための方法に深い関心を寄せてきた。幸福についての考察や、幸福であるためにはどのような生き方をすべきであるか、その方法論を提示した文章・書物は、一般に「幸福論」と呼ばれている。
[編集] 宗教の役割
人間は古来より物質的豊かさを求め、飢えた状態よりも満腹した状態を、吹き曝しで寒いよりもしっかりした屋根と壁の暖かい住居や暖かい衣服を求めてきた。しかしその一方では幸福が精神の在り様にも依存することから、幾ら足掻いても満たされない部分を精神性の追求に求めてもいった。例を挙げるなら死は不可避な損失だが、宗教が死後の概念を発明し、これが人の死に対する恐怖を癒してきた。また浄土や天国・極楽など、一種の救いとしてのシステムを設けることで、死は損失から希望にすら昇華されている。
原始宗教ではアニミズムなりシャーマニズムないしトーテミズムのように、自然と人間、あるいは人間と神秘(理解が及ばない現象など)の関係を問う様式で、現象を擬人化した精霊という概念を生み出し、その精霊を労わったり歓待することで便宜を図ってもらう様式も発展した。より近代化すると、現人神ないし神格のような「より高次の存在」を示すことで、宗教は自己組織化などの変化をしていった。
ただ報われない現世の救いを来世に求める思想はしばしば時の施政者によっても都合よく利用されたりもしており、こういった混乱は多かれ少なかれ様々な近代化された宗教の上で旧弊ともなっており、またその問題は新興宗教ないしカルトにおける搾取といった社会問題にも通じている。
とはいえ多くの宗教では、その理念の根底に「人を幸せにしたい」という哲学的思想があり、その方法論は宗教や宗派によっても様々ではあるが、これらは人が人間である以上、社会とは不可分であるという視点(→社会的動物)もあって、人個人から社会に於ける人間としての在り様に至るまで、戒律のような形で道を示したり、あるいは説話などを用いて諭す様式が見出せる。
こういった性質上、寺院を含む宗教施設の関係者は、一種のカウンセラーとしての社会的な機能を持っていたが、その一方で宗教施設はハレの日(祭り)におけるシンボルともなり、近代に於ける生活の中で節目を彩る要素でもあり、地域住人の不安や悩みを解消し、また地域社会の一体感を向上させる施設であった。しかし近代以降の日本では宗教観の衰退にも伴い、こういった社会的機能が求められない・機能を持たないこともあり、また新興宗教に対する否定感も手伝って宗教の形骸化は進行している。平成不況より日本人の自殺増大傾向は社会問題として2006年より日本政府も自殺総合対策会議を設置して対応策を進める中、宗教法人の中には自殺予防を呼びかけるキャンペーンを行っているところも2000年代より増加している。ただ、ケースによっては宗教絡みで自殺する者もいるなど、単純ではない(→自殺)。
[編集] 幸福の複雑性
例としては、ある人が子供の頃に憧れた職業に進むため、適性を無視してその方向に邁進、結果として途中で挫折した場合には、当人にとって大変な損失であり不幸である。よしんばその途中過程で、まだやり直しが利く段階での成功は、その瞬間には「幸福な出来事」といえるのかもしれないが、結果論から言えば「いよいよやり直しが利かなくなる状態に陥っただけ」ともいえる。 「棺を蓋いて事定まる」(『晋書』・劉毅伝)という格言があるとおり、ある現象が、その人物にとって果たして本当に幸福か否かは、その後の長い期間を経過しなければ、単純には判別出来ない複雑性がある。なお落語には「人の値打ちと煙草の味は、煙になって判るもの」(意:煙草は火を付けて吸うまで良し悪しが判らないが、人は葬式が終わって火葬されるまでは、どれだけの価値があったかが正確には判じ難い。)という下りもあるという。
故事を引用すれば、古代中国の『淮南子』人間訓に「人生万事塞翁が馬」(元の僧、熙晦機の漢詩「人間萬事塞翁馬 推枕軒中聽雨眠……」の冒頭。)がある。「塞翁が馬」とも称されるこの話には、人の幸不幸は縒って作った縄の目のように、交互に訪れる(「禍福は糾える縄の如し」・幸も不幸も交互に訪れるため片方ばかりは続かない)などの類似する故事・説話・慣用句なども数多い。
- 人生万事塞翁が馬:ある塞(城塞)のほとりに、老人とその息子とが暮らしていた。ある日、彼ら親子の馬が突然逃げ出してしまったため、周囲の人々は馬を失った親子を気の毒がったが、当の老人は「不幸かどうかは果たして分からんよ」と、意にも介さない。間も無く、逃げ出した馬は立派な馬を連れて戻ってきた。不幸が転じて幸運となったために周囲の人々は親子の幸福を感心したが、老人はやはり意に介さない。間も無く、息子がこの馬から落ち脚が不自由となってしまったため周囲は同情したが、それでも老人は意に介さない。その後、戦争が始まって村の若者は皆兵に徴収され、ほとんどが戦死してしまったが、息子は脚が不自由であるため村に残った。こうして、老人と息子は共に生き長らえ暮らしたという話である。
[編集] 幸福と病理
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ある人物が幸福であるか否かは、上述の様に、客観的なものではなく、あくまでも主観的な感情であるため、周囲から判断することは困難である。また精神病の上では幸福感が得られなくなる症状もあり、発症者には適切な治療が必要である。
[編集] うつ病による問題
幸福感を得られなくなる病気としてうつ病がある。この病気は絶望感で悶絶するもので、患者自身にとってうつ病は他に比較できない苦痛を発生させ、何ごとに対しても思考することが困難な状態に陥り、極度の絶望感に苛まされることになる。この状態では無意味に苦しいだけなので、現代医学の視点からすれば一刻も早く心療内科に駆け込み、適切な治療を受けるべきである。
うつ病は現代医学において治療法が確立されていることもあり、投薬などの治療によって回復後に本人自身が思い返して「一体何故あんなに思い詰めていたのだろうか」と呆れる程にドラスティックに回復する病気でもある。また同症の発症は「心の風邪」という形容詞が示すように、「誰でも発症する恐れがあるが、放置すれば命にかかわることもある(万病の元)」でもあるため、早めの治療こそが有効といえよう。
ところが、本人が病気と認めず治療もせずに絶望感のなかで頑張り過ぎた挙句自殺してしまうケースも、日本を含む先進諸国を中心に社会問題となっている。
[編集] 関連項目
この「幸福」は、哲学に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正して下さる協力者を求めています。(Portal:哲学) |