川畑真人
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川畑 真人(かわばた まさと、1977年10月15日 - )は大阪府出身の全日本プロドリフト選手権(D1グランプリ)に参戦するレーサー。普段は新潟県にあるGPスポーツのアンテナショップ「Gallery(ギャラリィ)」でパーツ開発のテストドライバーやデモカーの整備・車の整備をこなしている。愛称は「川ちゃん」「マサト」など多数。
[編集] 略歴
D1初参戦は2002年第4戦。当初は勤め先であるGPスポーツ製作の180SXで参戦していた。2004年に、平岡英郎が離脱したワークスチームのトラストに抜擢され、シルビア(S15)を駆る。後半になって追走に進出するようになる。2005年は上位入賞を重ね、ランキング5位と飛躍を遂げる。2006年は、第7戦富士で念願の初優勝。チャンピオンを争った熊久保信重、野村謙、風間靖幸には水を開けられたがランキング4位となる。2007年はチームTOYOに移籍。開幕戦エビスで2位と好スタ-トを切ったが、第2戦富士の追走で斉藤太吾と接触し、そのままタイヤバリアに激突。川畑本人は軽い打撲で済んだが、マシンは全損。このクラッシュがD1史上最大のクラッシュとなってしまった。第3戦鈴鹿には、製作が間に合ったニューマシンのシルビアを投入。鈴鹿の単走では、D1史上初めて3本全てで100点を獲得し、前戦のクラッシュの影響を感じさせない走りを披露。第4戦SUGOでシーズン初優勝。第6戦オートポリスで2勝目、最終戦ではシーズン初の追走1回戦敗退を喫するも、ライバルの熊久保が準決勝で敗れたため、僅か1ポイント差ながら、初のD1シリーズチャンピオンを獲得した。
[編集] エピソード・武勇伝
- 同じチームメイトの黒井敦史とは師弟関係。高校生の時、走り屋がよく集まるガソリンスタンドでバイトをしていて、その時の常連客が黒井だったという。
- 激しい走りから当初はクラッシュが多く、審査委員長の土屋圭市氏から、「川畑、そこはコースじゃない」と言われたことがある。
- D1界一の酒乱として知られ、「ザ・ドリフト - D1グランプリ2008」の独占インタビューのなかで、サンプロスが調べたところによると
- 「イギリスで行なわれたD1エキシビジョン参戦時、市内でパスポートをなくした(のちにチームTOYOのスタッフが奇跡的に拾って事なきを得た)」
- 「末永直登選手にヘッドロックをかました」
- 「鈴木学氏に暴言を吐いた」
- 「駒形行春社長が買ってきた新車にとんでもないことをした」・・・などがある。
- 2007年鈴鹿で、この年から施行された『土屋圭市賞』という単走で3本連続100点を獲得した者に贈られる賞を受賞し、賞金10万円を獲得した初めてのドライバーとなった。
- 2007年の途中まで白ヘルメットを使用していたが、SUGOでの優勝を機にデザインヘルメットに変えた。
- PUMAシューズの熱いこだわりを持つ一面もある。仕事用はもちろんのことレーシングシューズもPUMA製を指名買いする。「PUMA以外の靴は絶対に履きません」とのこと。
- 愛車はGPスポーツエアロのシルビア。家庭用にマークIIも持っている。
- 自身の暴れん坊っぷりが生んだ「そこはコースじゃない」グッズや、2007年第4戦菅生で象徴されるべき「運も実力!!」グッズがよく売れている。
- ステアリングさえ握らなければ非常にマジメな好青年で、気さくで人当たりもいい。
- 「角度」と「スピード」という相反する要素を高次元でミックスさせた走りは見事で、それが単走での強みになっている。
- GPスポーツに就職するまえは大阪府内のガソリンスタンドで5年間働いたという。そこから奈良県のとあるショップを経て、D1SLドライバーの一柳和人選手も務める「ZIEK(ジーク)」でメカニックも歴任した。
- GPスポーツに就職するきっかけは、20代前半に出場したエビスサーキットで行なわれたドリコンにて、駒形社長から「ウチのエアロをつけてよ」と誘われたこと。D1に出るようになってからもサポートは受けていたが、2003年にセキアヒルズで行なわれたD1へは「ちょっとプライベートで追っかけるのは難しいんで、行かないようにしてまた来年がんばります」と相談したところ、駒形社長から「ウチに来るんだったら面倒を見てやるよ」と誘われ、大阪から新潟に引っ越して社員になった。